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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 暗殺された夫の遺志を継いだ女城主・田鶴(関水渚)の奮戦と壮絶な最期【どうする家康】

暗殺された夫の遺志を継いだ女城主・田鶴(関水渚)の奮戦と壮絶な最期【どうする家康】:2ページ目

果たして戦闘が開始されると、田鶴は見事な指揮で寄手を翻弄。かつて亡き夫が今川の軍勢をそうした如く、散々にあしらいます。

「まったく女子(おなご)と見くびっておったが、やりおるわい」

「これは本腰を入れてかからねばならんな」

そして翌日。再び寄せ手が激しく引間城を攻め立てると、いよいよ城内への突入に成功しました。こうなれば多勢に無勢、もはや落城は時間の問題です。

「……御方様、敵が!」

「相分かった」

かつて夫が着ていた緋縅の鎧兜を身にまとった田鶴は、長刀を握りしめて立ち上がりました。

「者ども、かくなる上は一人でも多く、冥途の道連れにしてくりょうぞ!」

武装した侍女7~8名を従え、50~60名ばかり生き残った城兵と共に徳川の大軍へ殴り込んだ田鶴は、死闘の末に壮絶な最期を遂げます。

「いやはや全く、男でもこれほどの節義と武勇を供えた者は、なかなかおらなんだのぅ」

酒井・石川の両将はじめ、徳川家中の者たちは口を揃えて田鶴を讃えたのでした。

終わりに

 

……致実が妻女ながらもけなげなる正室にて夫の横死を憤り城兵を指揮し堅固に籠城し小国の武藤刑部丞をたのみ甲州の武田へ内通す神君此由聞召飯尾が家臣江間安芸同加賀両人へ御内意有て松下覚右衛門後藤太郎左衛門を御使とせられ徳川家へ其城を渡すに於てハ飯尾が幼子寡婦を御懇に御養育ありて其家人等悉く召抱られ御扶助有べしと仰ければ依て安芸加賀両人其旨を以て飯尾が妻を種々と諫めさとしけれども彼の妻さらに承引せず爰に於て引間の城を乗取とて酒井左衛門尉石川伯耆守両将を差向らる然に彼妻ハ防戦の指揮をなし城兵屡々突出て烈しく戦へバ寄手大に敗走せり其翌日ハ酒井石川又攻寄てはげしく攻立遂に外郭に乗込めバ飯尾が妻は緋縅の鎧に同じ毛の兜を着長刀をふるつて敵中に切て入る侍女婢七八人同じ粧ひ出立て城兵五六十人と同く勇戦し男女一人も残らず討死す彼妻死去就の是非ハ論ずるにたらされども其志操の説烈ハ丈夫にもまさりたりと感ぜぬ者奈し扨酒井石川の両将城を乗取れば左衛門尉に此城を守らしめらる江間安芸加賀の両人ハ最初より御内意を蒙りし者なればとて飯尾が所領ハ悉く此両人へ下されける(原書飯尾病死し氏真より其幼子に家督を継せしとあるハ誤之引間城攻の事ハ基業による)……

※『改正三河後風土記』巻第九「寺部上野城攻付飯尾豊前守の事」

かくして夫の後を追うように生涯を終えた田鶴。なお引間城は酒井忠次に預けられ、飯尾の遺領はことごとく江間安芸と江間加賀の両名に与えられます。

なお田鶴が椿姫と呼ばれたのは、その死を惜しむ人々が椿の花を植えたことに由来。彼女がいかに敬愛されていたかがよく解りますね。

もし武田との連携が一足早ければ、家康によって滅ぼされることは免れたかも知れません。しかし、そうなると今度は信玄との関係においてうまく立ち回る必要があり、どこまで独立を保てたかは微妙なところでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではこの名場面がどのように描かれるのか、今から楽しみにしています。

※参考文献:

  • 成島司直『改正三河後風土記 上』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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