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【ネタバレ注意】孤独と狂気にさいなまれる今川氏真。その後どうなる?【どうする家康】:2ページ目
転落・流浪の人生
●氏真
五郎 彦五郎 上総介 刑部大輔
従四位下 入道號宗誾 母は信虎が女。
天文七年駿河国に生る。永禄三年五月八日従四位下に叙し、……※『寛政重脩諸家譜』巻第九十四 清和源氏(義家流)今川
【意訳】今川氏真。通称は五郎、彦五郎。官職は上総介、刑部大輔。位階は従四位下、出家後は宗誾(そうぎん)と号し、母親は武田信虎(信玄父)の娘=信玄の甥に当たる。
天文7年(1538年)駿河の国で誕生。23歳となった永禄3年(1560年)5月8日、従四位下に叙せられた。
……ちょっと待って下さい。永禄3年(1560年)5月と言えば、19日に桶狭間で父・義元が討ち取られる直前。5月8日付で辞令が下り、数日で駿河に報せがもたらされたとすれば……。
「五郎よ、おめでとう」
「ありがとうございます、父上!」
などと言っていたかはともかく、喜びの真っただ中で父を喪う急転直下。悲劇のギャップも大きかったことでしょう。しかし、悲しんでばかりもいられません。
……義元戦死の後遺領を継。十一年十二月武田信玄駿府に出張し、急に居城を攻。氏真防ぎ戦ふといへども、勢ひ屈して終に城をさけ遠江国掛川にうつり、のち北條氏康がもとにいたりて寓居す……
※『寛政重脩諸家譜』巻第九十四 清和源氏(義家流)今川
【意訳】義元の没後に今川家を継承するも、永禄11年(1568年)12月に武田信玄が駿府へ侵攻。防戦に努めるが陥落し、遠江国掛川城へ逃げ込んだ。
その後、掛川城を(元康改め)家康に攻め落とされ、舅の北条氏康(ほうじょう うじやす)の元へ身を寄せる。
「おぉ、婿殿。何とおいたわしい……」
しばらく北条家の世話になっていた氏真ですが、どういう訳か居心地が悪くなったようで(武田の圧力があった模様)、元亀元年(1570年)12月に浜松へ逃げ込みました。
……元亀元年十二月また浜松にのがれ来りて、東照宮を頼みたてまつりしかば、その流落を憐みたまひ、懇に御撫育あり……
※『寛政重脩諸家譜』巻第九十四 清和源氏(義家流)今川
浜松の主は我らが?家康。かつて大変お世話になった義元の子が、自業自得とは言えこんな哀れな姿になっては、いくら何でも見捨てられません。
(大河ドラマでは元康の愛妻・瀬名にあんなことやこんなことをしていましたが、実際にはしていないのでセーフです)
やがて近江国野洲郡(滋賀県野洲市一帯)に移り住み、生活費として旧領のうち500石を与えられた氏真は、慶長19年(1614年)12月28日に77歳で亡くなりました。
……そののち近江国野洲郡のうちにして、舊地五百石をたまひ、慶長十九年十二月二十八日卒す。年七十七。豊山栄公仙岩院と號す。市谷の萬昌院に葬る。後この寺を牛込にうつさる。室は北條左京大夫氏康が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第九十四 清和源氏(義家流)今川
ここには書いていませんが、氏真は江戸に移住していたと見られ、市ヶ谷の萬昌院(龍寶山萬昌院功運禪寺。現:東京都中野区)に葬られます。
萬昌院の開祖(開基)は弟の今川長得(ちょうとく)。早くから出家していたようで、兄の菩提を弔いました。
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