「鎌倉殿の13人」鎌倉を火の海に。ついに勃発、和田合戦!第41回放送「義盛、お前に罪はない」予習:4ページ目
5月3日・その一「いまだ闘志は衰えず」
小雨が降ってきました。寅刻(午前4:00ごろ)、いよいよ敗色濃厚となった和田勢。
しかしそこへ駆けつけたのが横山時兼(よこやま ときかね)。義盛にとって義理の甥に当たります。
婿の波多野三郎(さぶろう)、甥の横山五郎(ごろう)ら数十名を引き連れ、和田勢3,000騎(※)はにわかに士気を取り戻しました。
(※)『吾妻鏡』にそうあるのですが、当初150騎だったのが(勝ち戦ならともかく、敗色濃厚な軍勢が)3,000騎にも膨れ上がるでしょうか。横山勢の援軍が数十騎ですから、後から駆けつけた者を含めてもせいぜい300騎がいいところと見られます。
辰刻(午前8:00ごろ)になると西相模から曽我(現:小田原市)・中村(同)・二宮(現:二宮町)・河村(現:相模原市)と言った軍勢が鎌倉へやってきました。しかし、彼らは北条と和田のどっちに味方したものか遠巻きに様子見するばかり。
「何を迷っておるのか。早く北条(こっち)に味方しなさい!」
実朝が命令を発したことにより、彼らは北条方に与します。まぁ、大義名分は大事です。
このままではジリ貧だ……巳刻(午前10:00ごろ)になって和田勢はいよいよ本気で御所へ攻め上がろうとしましたが、既に各方面を抑えられて身動きがとれなくなってしまいました。
さてその頃、北条方に由利惟久(ゆり これひさ。中八太郎)という弓の名手がおり、敵方の兵を次々と仕留めます。
後日武功の証明とするため、矢に自分の名前を入れていました。しかしその矢を和田勢の古郡保忠が射返したため、「由利めは敵に寝返った」とあらぬ噂が立ってしまいました(これが後に所領を没収される原因に)。
「もう和田に勝機はない。一気に攻め滅ぼせ!」
意気込んで突入していったのは小物資政(こもの すけまさ)。鎮西(九州)の住人で、かつて亡き源頼朝(演:大泉洋)の時代に高麗(※実際は鬼界ヶ島≒南西諸島)を征圧したと言います。
しかし相手は朝比奈義秀、たちまち返り討ちに。いかに劣勢と言えど、まだまだ闘志は衰えていませんでした。