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「鎌倉殿の13人」鎌倉を火の海に。ついに勃発、和田合戦!第41回放送「義盛、お前に罪はない」予習

「鎌倉殿の13人」鎌倉を火の海に。ついに勃発、和田合戦!第41回放送「義盛、お前に罪はない」予習

5月3日・その二「和田義盛の最期」

一方の北条も優勢とは言え、決して余裕ではありませんでした。ちょうど鎌倉に来ていた難波長定(なんば ながさだ)は文官でありながら戦わされます。

また僧侶の弁覚(べんかく。俗名は大方余一)は大町大路で弟子たちと一緒に中山行重の軍勢と戦闘。何とかこれを撃退しました。

その頃、長尾景茂(ながお かげもち)・長尾胤景(たねかげ)兄弟は土屋義清・土肥惟平と戦っていたところ、長尾兄弟の弟である江丸(えのまる。13歳)が加勢に駆けつけます。

「兄上、やつがれも戦いまする!」

義清は江丸の健気さに感心し、それ以上は矢を放たずに退散。朝比奈義秀・古郡保忠と合流しました。

「「「さぁ、最後にもうひと暴れしようぜ!」」」

土屋・古郡・朝比奈の三将は轡を並べて縦横無尽に暴れまわると北条方の兵は蹴散らされ、その凄まじさに味方までもが逃げ散るありさま。

一気に今小路(いまこうじ。若宮大路の西側を並走する大通り)を北上し、寿福寺を右折して一気に東へ突き進んだところ、八幡様の三鳥居前で土屋義清が矢に当たってしまいました。

「おのれ!」

矢が飛んできたのは境内の方向。境内の神域に武装した者はいないはずですから、これはきっと八幡様のお怒りによるものでしょう。果たして義清の首は郎党に掻き切られ、寿福寺へ戻って埋葬されたと言います。

戦いは酉刻(18:00ごろ)に及び、義盛の四男・和田義直が伊具盛重(いぐ もりしげ)に討ち取られました。

「何だと……四郎(義直)が!」

息子たちの中でも一番可愛がっていた義直の死に、義盛は泣き叫びます。

「これまで四郎に所領を遺そうと奉公してきたが、その四郎が死んでしまったら、もう戦う意味などない」

もう自暴自棄で東へ西へ駆けずり回っているところを、江戸能範(えど よしのり)らに討ち取られたのでした。享年67歳。

同時に和田義重(34歳)・和田義信(28歳)・和田秀盛(15歳)ら一族7名も討たれましたが、朝比奈義秀は数名で浜辺から舟を出して安房国(現:千葉県南部)へ逃れます。

『吾妻鏡』では兵500騎・船6艘とあるものの、それだけ大きな船(平均して80名程度乗船可能)を浜辺からすぐに出すのは困難です。また、義秀ならそれだけ残っているなら抗戦を続けたでしょう。

文中に「朝比奈義秀ならびに数卒ら」とあるので、残党の数は恐らく50名程度がいいところと思われます。

また和田常盛や山内先次郎(やまのうち せんじろう)、岡崎実忠・横山時兼・古郡保忠・和田朝盛ら6名についてはそれぞれ逃げ出したということです。

6ページ目 5月3日・その三「泰時、禁酒(ただし少しなら可)を誓う」

 

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