歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【後編】:2ページ目
甘言を用い、主君を見捨てた?
この時、「武田四天王」として知られる春日虎綱は、「光堅を追放するように」と勝頼に提言します。しかし勝頼は光堅の甘言に惑わされていたため、進言を受け入れなかったとされています。
しかし実際には、光堅は、甲越同盟を結ぶ際の手続きには関わっていませんでした。武田・上杉の間を取り次いだのは、小諸城将である武田信豊(信玄の甥で武田勝頼の従弟)で、少なくとも光堅が関わっていた記録はありません。
このように、『甲陽軍鑑』の記述は整合性に欠ける部分があります。
光堅の悪評は、その最期にまでつきまといます。天正10年(1582年)3月、武田家の滅亡に際しての話です。
織田・徳川連合軍の甲州征伐を受けて、勝頼は新府城を放棄しました。そして都留郡の小山田信茂を頼りましたが、信茂に離反されて自害します。
この甲州征伐の中で光堅も命を落としました。享年70歳。
武田家の滅亡について記録した軍記物である『甲乱記』によると、彼は織田側に投降して処刑されたとされています。
また『甲陽軍鑑』でも、彼は現在の甲府市にあたる親族の屋敷で処刑されたとされています。
つまり彼は、勝頼と行動を共にせず甲府に残り投降、そして処刑された「主君を見捨てた奸臣」として位置付けられているのです。
ところが『信長公記』では、光堅が勝頼に最後まで従い、忠義を尽くし戦死したと記録されています。
「口だけ」の人物?
これについては、どの記録が本当なのか、簡単に結論を下すことはできません。
ただ、『甲陽軍鑑』を書いたのは、武田信玄に仕えた重臣・春日虎綱か、あるいは彼に近い親族だとされています。『甲乱記』も同様です。そして『甲陽軍鑑』の記述は全体的に光堅について辛辣というよりも辻褄が合わない捏造・でっち上げに近い個所が多いのは、これまで見た通りです。
一方、『信長公記』はわりあい記述内容に信頼がおけるとされていますし、光堅のことをあえて持ち上げる必要がないにも関わらず、忠臣として記しています。
このことからも、光堅の最期についても、語り継がれているようなひどさではなかったのではないでしょうか。
それにしても光堅は、なぜここまで悪しざまに書かれたのでしょうね。はっきりした理由は不明です。この他にも、『甲陽軍鑑』では武田信玄が光堅を「口だけしか動かない男」と評していたともあります。
しかし、そんな人物が重臣、板垣信方の後任に据えられるのは不自然です。また光堅は北信濃の豪族・香坂氏の調略も任されたり、上杉氏の侵攻に備えての地形調査の役割も担っています。「口だけ」の人物がここまで重用されるのはおかしいでしょう。