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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その3】

奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次5:2ページ目

義経、再び奥州藤原氏を頼る

頼朝と対立する義経の状況は日を追うごとに悪化していきます。『玉葉』の文治2(1186)年9月20日の条の記載を見てみましょう。

堀景光は当時、京の都にいました。同地で鎌倉方の御家人・糟屋有季が堀景光を発見。身柄を拘束されてしまいました。厳しい拷問を受けたようで、景光は義経について自白を始めていきます。

義経が奈良の興福寺に身を隠していたこと、景光が使者として藤原範季と連絡を取り合っていたことなどが明るみに出ました。しかし肝心の義経一行の足取りは掴めません。むしろ景光は、義経の行方については隠し通しつつ、奥州に行くまでの時間を稼いだ可能性もあります。

実際に義経は奥州藤原氏のもとに身を寄せ、再び秀衡の庇護を受けていました。当時、奥州藤原氏は頼朝ら鎌倉方と対立関係に入りつつありました。秀衡からすれば、頼朝と対峙するために義経の能力は是非とも欲しいところです。

金売吉次の最期

堀景光=金売吉次は、その後どうなったのでしょうか?敵方に捕縛された以上、堀景光の扱いも決して楽観視できるものではありません。しかし処刑された、という形跡はありませんでした。

金売吉次としての最期は伝わっているのでご紹介します。『白河風土記』によれば、承安年間(1171〜1174年)に皮籠村において、京から奥州への帰途、群盗に襲われて殺されたそうです。金売吉次の方が伝説だとして、実際の堀景光の方はどう処遇されたのでしょう。義経の郎党である佐藤忠信や伊勢三郎らも、鎌倉方に次々と発見されて殺害されています。伝説が本当でなくとも、堀景光もおそらく鎌倉方によって処刑されたことは想像に難くありません。

3ページ目 義経と奥州藤原氏が滅ぶ

 

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