奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次5
堀景光、義経の使者として頼朝のもとへ赴く
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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その1】
藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その2】
源平合戦において、源義経は縦横無尽の活躍を果たします。摂津国の一ノ谷の戦いでは鵯越えで平家軍撃破に貢献。屋島の戦いでは四国に上陸し、讃岐国の平家陣営に奇襲攻撃を仕掛けて敗走させています。義経は長門国の壇ノ浦の戦いでも「八艘飛び」と言われる戦働きを発揮。配下に敵船の船の漕ぎ手を射させ、船の動きを止めるなど柔軟な戦い方をしていました。
しかし少しずつ、義経や景光主従の運命の歯車が狂い始めます。平家打倒後、帰京した義経は京に凱旋。先年の検非違使の無断任官に続き、伊予守(伊予国の国司)に任じられます。度重なる義経の問題行動は、鎌倉にいる頼朝や坂東武士たちの反感を買っていました。ここで堀景光は、義経と頼朝の間を取り持つべく行動に出ています。
『吾妻鏡』の元暦2(1185)年5月15日の条の記載を見てみます。このとき、義経一行は京から坂東へ下向する途中でした。景光は使者として鎌倉に先行。一行が捕らえた平家の棟梁・平宗盛(清盛の嫡男)と息子の清宗を連れて明日鎌倉へ入りたいと伝えます。
しかし頼朝の返事は素っ気ないものでした。頼朝の舅・北条時政が義経一行の滞在する酒匂の宿場に送った上で、宗盛親子のみを鎌倉に入れることを伝えます。加えて、義経一行が鎌倉入りを果たすことは許さない、という使者・小山朝光も派遣されました。鎌倉入りを許されない義経は、頼朝に対して腰越状を提出。自らの心情を綴って思いを伝えています。
結局、鎌倉入りを許されなかった義経一行は、京へと戻ることとなりました。同年6月には、景光は義経の命で平清宗を斬首しています。やがて京に戻った義経たちには、土佐坊昌俊などの鎌倉方からの刺客が来襲。命を狙われることとなりました。
都落ちを決めた義経一行は、九州行きを決めています。しかし一行は再起を期して西国に落ちる途中、暴雨風に遭ったため散り散りとなります。その後も景光は、武蔵坊弁慶(義経の郎党)や静御前(義経の愛妾)、源有綱(義経の女婿)と共に義経に近侍していました。景光=金売吉次がどれだけ義経から信頼を受け、心を許されていたかがわかる状況です。