奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次3
奥州藤原氏の家臣にして義経の郎党
前回の記事【その1】はこちらから藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その1】
金売吉次のモデルは、堀弥太郎景光という人物だと考えられています。堀景光は源義経の郎党を務めた人物です。出自や経歴こそ不明ですが、早い時期から行動を共にしていました。
『平治物語』では、堀景光を「金商人」と紹介しています。このことから、堀景光が金売吉次のモデルだと考えられます。堀景光は、金商人であると同時に奥州藤原氏の家臣(政商)であったのではないでしょうか。
京では奥州藤原氏を代表する立場として活動し、中央の情報収集を行なっていたと考えれば自然です。承安4(1174)年、源義経は鞍馬寺を出奔。おそらくこの頃には、景光は義経と行動を共にしていたと考えられます。
奥州藤原氏と義経を結んだのは、平家に対抗するためだった?
当時の中央政界では、平清盛率いる平家一門が権勢を極めていました。清盛は後白河法皇の院政のもとで太政大臣を補任。一門の多くが朝廷の要職に起用されています。
当時の日本国内には、平家に対抗できる勢力は奥州藤原氏以外は不在となっていました。既に平家は朝廷を通じて、奥州藤原氏当主・藤原秀衡を従五位下鎮守府将軍に叙任しています。
秀衡への叙任は、いわゆる官打ち(位打ち)でした。位打ちとは、対象者に相応しくない官位を与えるやり方です。叙任された人間は、分不相応な官位によって負担が増加。不幸な目に遭って自滅するという、敵対勢力に対する政治的措置でした。
日宋貿易において、金は重要な輸出品です。平家は既に金を生産する奥州に狙いを定めており、奥州藤原氏の滅亡を企図していました。
京にいる堀景光は、当然ながら平家の政治的意向に気づいています。最悪の場合は、奥州藤原氏が平家と戦うことも視野に入れていたと考えるのが妥当でしょう。
平家に対抗する上で重要になるのが源氏の存在でした。平治の乱で敗れたとはいえ、諸国には源氏の係累や旧臣たちが点在しています。源氏の協力があれば、奥州藤原氏も平家と戦える状況でした。
既に源氏の棟梁・源義朝は敗死。嫡男である頼朝は伊豆国に流罪となっていました。手近な所で景光が面識を持ったのが源義経だったと考えられます。
景光は京で義経と近づくと、奥州へ行くことを提案(したと考えられます)。当然、奥州藤原氏の当主・秀衡も同様に考えていました。