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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その2】

奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次3:2ページ目

奥州藤原氏と義経との出会い

当時の東北地方は、二つの令制国に分けられていました。太平洋側の陸奥国(現代の福島県・宮城県・岩手県・青森県の大部分)と日本海側の出羽国(山形県と秋田県に相当)です。

「奥州」とは陸奥国あるいは出羽国をも含んだ二カ国を総称する言葉でした。承安4(1170)年ごろ、堀景光は源義経を伴って奥州平泉に下向。秀衡にも面会しています。景光にとっては帰国でもありました。

堀景光は奥州平泉でどこに拠点を持っていたのでしょうか?

伝承によれば、金売吉次の屋敷跡とされる場所が平泉の近くにありました。現在の岩手県奥州市衣川にある平安時代の寺院跡「長者ヶ原廃寺跡」です。

現在では奥州藤原氏の祖先である安倍氏が建立した寺院跡地だったと確認されました。しかし堀景光=金売吉次の足跡は、確かに平泉でも確認されていたことは確かなようです。
源義経が秀衡のもとで養育されるようになると、景光もときには近侍し、あるいは京で情報収集にあたったものと推察されます。

義経、奥州藤原氏の元を巣立つ

やがて時代は反平家に向けて動き始めることとなります。

治承3(1179)年、後白河法皇は平清盛によって幽閉。院近臣の多くが朝廷の要職から解任され、平家一門が起用されていきます。世にいう治承三年の政変です。

一連の政変によって院政は停止。平家の知行国は日本の半分を超える30余ヶ国にのぼりました。当然、平家に対する不満は高まりを見せます。

政変の翌治承4(1180)年、以仁王(後白河法皇の第三皇子)が摂津源氏・源頼政らと共に挙兵。全国の源氏や寺社に平家打倒の令旨(命令文書)を発しました。

同年には伊豆国で源頼朝が挙兵。やがて甲斐の武田信議信濃の木曾義仲らも兵を挙げます。

奥州にいた源義経らも源平合戦に加わる道を選びました。藤原秀衡は遺留しますが、義経は館を出て坂東の頼朝の陣に進発。奥州藤原氏家臣の佐藤継信・忠信兄弟も義経に従っていることから、堀景光も帯同した可能性があります。

頼朝は伊豆の石橋山で平家方の大庭景親らに負けるものの、房総半島に逃げて勢力を挽回します。

鎌倉に入った頼朝は鎌倉殿(鎌倉の主)として君臨。坂東を平定し、武士たちを糾合していきます。同年10月には、義経は黄瀬川で頼朝と対面。堀景光=金売吉次が少しずつ歴史の表舞台に姿を表していきます。

次回【その3】に続きます。

 

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