【光る君へ】まひろの最期(紫式部の没年)はいつ?いまだ決着がつかない諸説を一挙紹介!
NHK大河ドラマ「光る君へ」皆さんも楽しんでいますか?
そろそろ最終盤にさしかかり、主人公のまひろ(藤式部。吉高由里子)がいつ亡くなるのか、気になって来た方も多いことでしょう。
カギは”ソウルメイト”の藤原道長(柄本佑)が亡くなる万寿4年(1027年)。それより前か後かで、エンディングが大きく変わって来そうです。
ちなみに藤式部(紫式部)の没年については諸説あり、いまだ定説を見ていません。
そこで今回は、藤式部の没年に関する諸説を紹介。皆さんは、いつごろだと思いますか?
藤式部の没年は?幅広い諸説を一挙紹介!
まずは藤式部の没年について、一覧でまとめてみましょう。
・長和2年(1013年)5月25日以降
→藤原実資『小右記』で「越後守為時女」が最後の登場。従来の通説。
・長和3年(1014年)2月
→『平兼盛集(西本願寺本)』巻末逸文より。岡一男などの説。
・長和5年(1016年)ごろ
→父の藤原為時が同年4月29日に出家した理由が、藤式部の菩提を弔うためとする。与謝野晶子らの説。
・寛仁元年(1017年)以後
→『源氏物語』主人公の光源氏が上皇(太上天皇)に準ずる存在となったストーリーは、敦明親王に准太上天皇の待遇が贈られた事実を基に書いたと考える。山中裕などの説。
・寛仁3年(1019年)ごろ
→『小右記』1月5日条に実資と相対した「女房」とは藤式部であるとする。先の『平兼盛集(西本願寺本)』巻末逸文が美作三位こと藤原豊子(宰相の君。道綱女)の書いたものであれば矛盾が生じない。萩谷朴・今井源衛らの説。
・寛仁4年(1020年)ごろ
→『平兼盛集(西本願寺本)』が治安元年(1021年)の成立とし、その前年に流行した疫病などによって亡くなったとする。上原作和たちの説。
・万寿2年(1025年)以後
→『栄花物語』の解釈により、娘の大弐三位(藤原賢子)が親仁親王(のち後冷泉天皇)の乳母となった時点ではまだ生きていたと考える。安藤為章などの説。
・長元年間(1028~1037年)
→藤原実資『小右記』に登場する「女房」は藤式部であるとする。倉本一宏らの説。
・長元4年(1031年)
→『続後撰集』に採録されている藤式部の和歌の詞書より。ただしこれは『紫式部集』からの再録である。角田文衛たちの説。
……結局どれも決め手にはならなそうですね。
本作の藤式部(まひろ)は天禄元年(970年)生まれ説が採られており、藤式部の没年は、おおむね長和2年(1013年)~長元4年(1031年)と諸説幅広くなっています。
これらの説に基づくと、藤式部は(生年を固定した場合)44~62歳の間に世を去ったと考えられるでしょう。