平清盛は白河法皇の隠し子?異例な出世に隠された「白河法皇ご落胤説」:2ページ目
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『平家物語』によれば、清盛の母親・祇園女御は白河法皇の寵愛を受けた後、平忠盛との間に清盛を授かったとされています。祇園女御に関しては、生没年はもちろん、出身地などの氏素性も不明ですが、一説には妹の子を猶子にしたとする説もあります。
いずれにせよ、清盛は祇園女御の後押しを得て、出世街道を駆け上がるなど、武家の出身にもかかわらず、かなりの速さで太政大臣の地位にまで上り詰めるなど、異例中の異例。
後に天下を取った武家出身の源頼朝が、朝廷とは一線を画して鎌倉幕府を開いたのとは対照に、清盛はあくまでも、京の皇族や貴族など既存の権力基盤との関係性で実力をつけていくことにこだわりました。
天皇の外戚となり、政治を恣にすること強い執着をみせる姿はまるで、父親とされた白河法皇のようでした。
「平家にあらずんば人にあらず」は、清盛が発した言葉ではありませんが、白河法皇の「天下三代不如意」の意識は、脈々と受け継がれていたのかもしれません。
参考
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