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江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際

江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際

制度確立への過渡期だった江戸前期

ではなぜ松倉勝家は斬首となったのかというと、これはあくまでも「統治の失敗」について責任を取らされたのであり、領民への圧政そのものが理由ではなかったのです。

似た事例として、真田信利の改易を巡る有名な騒動があります。これも領内に餓死者が出るほどの苛政が敷かれたにもかかわらず、それ自体で罪を問われたわけではありません。真田家の場合は、幕府から請け負った事業について、実際よりも過大な実高を算定したあげく失敗に終わったことが問題視されたのでした。

また、これもひどい話ですが、島原藩による税の過酷な取り立ては、江戸時代前期には決して珍しいものではありませんでした。

だからと言って許されていたのかというと、もちろんそんなことはありません。江戸中期以降になると「一揆」などによる農民からの異議申し立ての作法も確立されていくようになります。

「一揆」というと、なんとなく農民が武装蜂起して打ちこわしや放火、殺人を行うようなイメージがあるかも知れません。しかしそういうケースはむしろ例外的で、非武装が主でした。

また藩サイドも、これに武装して応じることは稀でした。こうした一揆の発生が「統治の失敗」と見なされれば改易となる可能性もあるので(実際、郡上一揆のような改易例があります)、藩もできるだけ問題が起きないように領民の要求にどこかで折れるようになります。あんがい穏健だったのです。

このように見ていくと、江戸時代前期というのは、こうした穏健な制度が確立されていく過渡期にあったと言えるかも知れません。島原の乱や松倉家に対する処分はひとつのきっかけであり、こうした混乱を経ながら江戸時代の「天下泰平の世」は作り上げられていったのでしょう。

参考資料
ふるさと再発見「第2代島原城主 松倉勝家(1597―1638)-島原市
HugKum(はぐくむ)
ふるさと人物誌18 黒田52万石を救った「栗山大膳」-朝倉市

 

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