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江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際

江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際

封建制度は悪政もほったらかし!?

さて、ここでひとつ疑問が湧いてきます。松倉親子の悪行は、島原の乱という大事件に至るまで、なぜ幕府によってほったらかしにされていたのでしょうか。

最後にはその悪行が白日のもとにさらされ、大名の斬首にまで至っているほどですから、松倉親子がやっていたことは当時としても「バレたらやばい」レベルの所業だったように見えるのですが……。

その答えは、当時の幕藩体制そのものにありました。そもそも江戸時代は、藩の自治に対し、幕府は口を挟まないのが原則だったのです。それは「封建制度」という制度の基本でもあります。

封建制度は、主君が家臣に土地を与える仕組みです。その土地、すなわち領地を統治する権限は家臣の側にあり、その統治体制について主君は関与しません。

こうした仕組みは連邦制に例えられることがありますが、連邦制の場合は、各藩の税収が中央(この場合は幕府)に吸い上げられることになります。しかし実際には、領地の税収はあくまでもそこの領主のもので、幕府ですらも税収は直轄領からしか得ていませんでした。

このように、各藩はそれぞれが独立した国家のようなものでした。だから揉め事が藩内で治まっているうちは、領民にいかなる苛政が敷かれていても幕府は介入しないのです。

ただしこれも程度問題で、ひどい苛政が続けば領民も逃亡し、難民化する者が出たりします。こうなると近隣の藩に悪影響を及ぼすので、ここで幕府は初めて「藩政不行き届き」として介入するのです。

一例として、有名な「黒田騒動」があります。福岡藩の政治を改善させるため、藩主である黒田忠之について、栗山大膳は「謀反の企てあり」と訴え出ました。これは大膳にとっては命懸けの行動で、訴えは受け入れられたものの、彼は盛岡へと配流されています。

ここまでしないと、幕府は藩政に干渉しなかったのです。これを踏まえて島原藩について見てみると、松倉家による苛政は、藩士が幕府に直訴するようなものとは考えられていなかったと言えるでしょう。また、仮に農民が直訴したとしても、幕府がそれを取り上げることはまずなかったと思われます。

3ページ目 制度確立への過渡期だった江戸前期

 

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