裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】:2ページ目
織田信長を助けたことのある朽木元綱
3人目は朽木元綱(くつき-もとつな)です。
元綱は2歳で家督を継承し、元亀元年(1570)での金ヶ崎の退き口で織田信長の撤退を助けた武将です。この撤退は朽木越えと言われています。
関ヶ原の戦いの際、元綱は藤堂高虎に東軍へ寝返る調略を受けていました。そして、秀秋に呼応して東軍へ加担。
戦後は内通する意思をはっきりさせなかったため、減封処分を受けました。しかし、減封されたものの、所領は豊臣家に仕えていた時と変わらないため、実質的に所領安堵といえます。一説では、元綱は関ヶ原の戦いに参加していなかったと言われています。
その後は元和2年(1616)に出家し、寛永9年(1632)に亡くなりました。
大名でしたが、小早川秀秋の与力だった赤座直保
4人目は赤座直保です。
直保は父とともに朝倉家に仕え、滅亡後に織田信長、豊臣秀吉と主君を変えた武将です。天正18年(1590)での忍城の戦いの功績により、越前国(現在の福井県北部)今庄2万石を所持していました。
関ヶ原の戦いでは大谷吉継の元で戦っていましたが、小早川秀秋の寝返りを機に東軍の味方へ。しかし、高虎から受けた東軍に寝返る返答をうやむやにしたままの寝返りだったので、加増も所領安堵もされずに改易となりました。
その後は信長の時代から関係のあった前田家の元でお世話になっています。長くは続かず、慶長11年(1606年)に越中国(現在の富山県)にある大門川の氾濫調査の際、濁流に飲まれ溺死しました。
石田三成と懇意だったため、重い処分を下された小川祐忠
5人目は小川祐忠(おがわ-すけただ)です。
祐忠は浅井家に仕えていましたが、元亀元年(1570)の姉川の戦いを機に織田信長に仕官。信長死後は明智光秀、柴田勝豊(柴田勝家の養子)を経て、豊臣秀吉に仕えます。豊臣家では伊予国(現在の愛媛県)今治に7万石を有する大名になりました。
また、信長から茶会を開く許可を貰っていたり、慶長3年(1598)に開かれた醍醐の花見では8番まであった茶屋の3番目を任されていたりと、茶人としての一面も持っています。
そんな祐忠は関ヶ原の戦いでは、2500人の兵と吉継近くの陣にいました。高虎の調略で内通していたので、秀秋が西軍を裏切ったことを契機に祐忠も西軍を離反。祐忠家臣が平塚為広を討ち取る功績を残ります。
しかし、裏切る意志を戦いの前に明確にしなかったことを家康に咎められ、死罪を言い渡されます。幸いなことに、東軍で功績を残した親族の一柳直盛の助けで、祐忠は死よりも軽い改易を言い渡されました。
死罪という重い刑を言い渡されたのは、祐忠自身が素行が悪かったこと、石田三成と親しい関係だったことがあげられます。その後は京都で隠居しました。