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裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】

裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】

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2021/11/23

主家のための裏切りが仇に出た吉川広家

最後に紹介する人物は吉川広家です。

広家は関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わることを確信していたため、主君の毛利輝元が西軍の総大将になることを拒否。

同じ毛利家の人間で輝元を総大将に押す安国寺恵瓊と対立しました。埒が明かないと判断した広家は、独断で家康と密約し、内通する代わりに毛利領安堵を取り付けました。

そして、関ヶ原の戦い本戦での広家は密約通りに兵を動かさず傍観。広家が動かないと兵を動かせない毛利秀元や長曾我部盛親の動きを抑えました。

この時、広家は「兵たちに食料を食べさせているから動かせない。」と言ったことから「宰相殿の空弁当」と名付けられています。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わり、密約通り毛利領安堵が約束されるかと思いきや、毛利領が改易される事実を耳にしました。これに広家は毛利家を残す代わりとして、自分自身も毛利家と同じ罰を与えてほしい内容の起請文を家康に送ります。

広家の嘆願のおかげで、毛利領は減封処分を下されました。

広家も14万石あった領地が3万石に減封。それに加えて、毛利家からは冷遇されることになります。また、一連の行動の事実を知った秀元は、広家に大激怒。以後広家と秀元は子々孫々まで確執が残りました

最後に

6人の関ヶ原の戦い後を振り返ってみると、秀秋は加増、広家は減封、安治と元綱は所領安堵、直保と祐忠は改易とそれぞれ違う処分を受けています。

事前に意思をはっきりさせるかさせないかで処分が決まったわけですが、裏切りには代償が伴うように、後年の評価や失敗すれば死に繋がるリスクが大きいことが考えられます。

いつの時代も裏切りには厳しい目が向けられるので、裏切りはしないようにしたいですね。

【東軍編】の記事はこちらから

参考:渡邊大門 『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか – 一次史料が語る天下分け目の真実』PHP研究所

 

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