裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】
前回は関ヶ原の戦いにおいて西軍から東軍へ寝返った武将たちをご紹介しました。今回はその逆で東軍から西軍へ寝返った武将たち5人とその後をご紹介します。
前回【西軍編】の記事はこちらから
裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った武将たちのその後を一挙まとめ!【西軍編】
義父を裏切ってまで西軍についた遠藤胤直
まず1人目は遠藤胤直(えんどう-たねなお)です。
胤直は義父の遠藤慶隆と岐阜城主で西軍の織田秀信(織田信長の孫)から会津から西進する徳川家康の妨害を頼まれます。しかし、2人は秀信の要請に応えることなく、東軍に味方しました。
しかし、胤直だけ何の前触れなく西軍に加担。胤直は、かつて慶隆が居城としていた八幡城を慶隆が奪還する際、対峙しました。八幡城の戦いと呼ばれるこの戦いで、胤直は慶隆と慶隆の娘婿にあたる金森可重(かなもり-よししげ)の前に敗北。降伏を余儀なくされました。
戦後、可重が助命嘆願しますが、義父である慶隆を裏切った罪は重く、改易となります。その後は妻と離縁し、浪人となり慶長9年(1604)に亡くなりました。
長年の恨みから東軍を裏切った小野寺義道
2人目は小野寺義道です。
義道は出羽国(秋田県と山形県)出身の武将で、天正11年(1583)に家督を継ぎます。その後は、同じ出羽国の最上義光(もがみ-よしあき)と対峙。
武勇に優れつつも、知略に乏しかった義道は義光の策略の餌食に。慶長2年(1597)には小野寺領のほとんどを失いました。しかし、義光の元にいた義道の家臣によって領地奪還を果たしました。
慶長5年(1600)、義道は関ヶ原の戦い時には義光と東軍として、西軍の上杉景勝と慶長出羽合戦にて戦います。戦いの最中、義道は最上軍の苦戦と同じ東軍の伊達政宗が静観していたこと、義光への恨みがあったことから西軍へ寝返りました。
しかし、西軍が敗北したことで形勢逆転。義道は多大な犠牲を出しながら、撤退します。戦後には改易処分を受け、石見国(現在の島根県西部)へ流罪となりました。その地で坂崎氏、亀井氏に仕え、義道は正保2年(1645)に80歳で亡くなりました。