裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】:2ページ目
人質により西軍に味方した前田利政
3人目は前田利政です。
前田利家の次男だった利政は、関ヶ原の戦いに赴く前に兄の前田利長と北陸の大聖寺城を攻略。しかし、一度金沢城へ退きます。金沢城から利長は出陣しますが、利政は動きませんでした。この時から利政は西軍に味方します。
利政が西軍になった理由は、石田三成に家族を人質に取られていたことと徳川家康に反発心があったことがあげられています。
関ヶ原の戦い後は所有していた能登国(石川県北部)を改易され、京都で過ごしました。慶長19年(1614)から起きた大坂の陣では、豊臣、徳川から誘いを受けるも拒否。中立を貫きました。
豊臣陣営に与しなかったことを家康は褒め、大名にすることを持ちかけられます。しかし、「大野治長の元で戦いたくなかっただけで、徳川の顔を立てたのでない」と伝え、これも拒否。その後、寛永10年(1633)に55歳で亡くなりました。
家臣を見捨てて寝返ろうとした宮部長房
4人目は宮部長房(みやべ-ながふさ)です。
宮部継潤の嫡男として生まれた長房は、父ともに豊臣家に仕えていました。慶長5年(1600)の会津征伐では、東軍として従軍。しかし、石田三成が挙兵したことで西軍に味方するため反転し、熱田(現在の愛知県名古屋市)で船に乗って戻ることを決めます。
そこで長房は、夜に陣を抜け出し熱田に向かいます。少数で船を待ちましたが、待てど暮らせど船は来ませんでした。長房不在を知った宮部家の家臣たちは、継潤の家臣だった田中吉政と合流しました。
船を発見できなかった長房は陣に帰るも、騒ぎを聞いた徳川家の者によって岡崎城で幽閉。戦後、長房は死罪を言い渡されます。
しかし、吉政の助命嘆願により、領地没収後に吉政預かりとなりました。その後、南部利直に預けられ、寛永11年(1634)に亡くなりました。