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ほったらかしの満州事変!?軍部の暴走を招いた日本人の不運な選択

ほったらかしの満州事変!?軍部の暴走を招いた日本人の不運な選択:2ページ目

総選挙の争点は、事変よりも「景気対策」

満州事変は1931 (昭和6)年に勃発。とにかく国際関係的によろしくないということで、当時の与党である「民政党」は、野党の「政友会」に、なんと首相の座を明け渡すから協力して軍の暴走を止めよう、と持ちかけます。

この提案はオープンなもので、新聞報道もされました。

これにいったんは政友会も乗り気になります。で、乗り気になればなるほどそれが報道されます。満州事変を企てた関東軍もその情報を得ているので、政府から圧力がかかるのではないかと気が気でない。

するとその関東軍の動向を見た民政党は情勢を甘く見るようになり、「関東軍も意外と大したことないな。これから政友会と手を組まなくても何とかなるかも」と考え始めます。

で、政友会も、どのみち満州事変の拡大を止めたら民政党の手柄になるので面白くない。結局、連立内閣を作る話はパーになります。

この時、与党の中でも連立を組むか組まないかで意見が分かれてしまい、党運営が立ち行かなくなったことから、当時の若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)首相は政権を投げ出してしまいます。1931(昭和6)年のことです。

さあ、総選挙です。1932(昭和7)年、ここでこれまで野党だった政友会は、先述の通りの関東軍の動向を見て「満州事変は選挙の争点にしなくてもいいだろう」と判断します。

ここにはひとつの錯覚もありました。国民は満州事変の動向に関心があり、事変のことを記事にすると新聞がよく売れたといいます。これにより、「国民は関東軍を支持している」ようにも見えたのです。

ただ、国民が関心を注いでいたのは、世界情勢そのものよりも「身内の安否」の方だったようです。

よって政友会は、景気対策を前面に押し出します。当時の日本は長引く不況にあえいでおり、政友会が与党になれば景気が良くなる、と国民に対してアピール。満州事変対策は、選挙公約の端っこに申し訳程度に記されました。

かくして政友会は大勝します。首相は犬養毅です。

犬養は、満州事変への対応をかなりがんばっています。選挙の時は満州事変対策について強硬な姿勢を見せたものの、首相就任後は独自ルートを使って穏健な路線で解決を図ろうとしています。

しかし時は遅すぎ、また内部でのいざこざもあって1932(昭和7)年3月に満州国建国という既成事実が作られてしまいます。

また日本国内でも、これと歩調を合わせて要人暗殺テロとクーデター未遂が発生していました。血盟団事件と五・一五事件です。当時の与党と野党が党利党略に走って、満州事変処理にもたついたことで、事態はほとんど取り返しのつかないところまで来ていました。

しかも五・一五事件の時はまだ日本は不況のただなかにあり、なんと国民は「党利党略に走る政治家よりも軍人の方が国民のことを思ってくれている」と思い込んで、事件の犯人たちを擁護し助命嘆願までしたのでした。

ただ皮肉なことに、間もなく日本の景気は上向いてきます。高橋是清蔵相による積極財政政策で、数年後には日本は世界に先駆けて不況を脱しました。1936(昭和11)年に起きた二・二六事件では、五・一五の時ほど実行犯たちは同情されず、むしろ国民からは「せっかく景気が上向いている時期に何やってるんだ」と思われたそうです。

3ページ目 関東軍、政治家、国民のそれぞれの思惑のずれ

 

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