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「出世より妻が大事!」武田信玄に物申した戦国武将・小幡上総介の妻に対する愛

「出世より妻が大事!」武田信玄に物申した戦国武将・小幡上総介の妻に対する愛:2ページ目

「武門に生まれ生きる以上、いつもよい時ばかりとは参らぬ。父親が敵であったからと言って、何の罪もない妻を捨てて路頭に迷わせるようでは、武士として一分が立たぬ。武士は不義を恥とする者なれば、たとい主君の命令としてもお受けしかねる。もしこの上総助が、舅の怨みを抱えているとお疑いならば、今この場にて腹を切っても構わぬ(意訳)」

【原文】

「侍のちなみは、よき時ばかりにてなし。この場に及んで科なき妻を去り、路頭に立たせ候ては、上総助が一分立たず。侍は不義を以て恥とす。それともに主命は力及ばず。御内意の分にては罷り成らず候。又主を妻に思ひかへ、逆意あるべき上総助と思召さば、この座にて切腹すべし。」

※『葉隠』巻第十、一二三より

※ただし『葉隠』では上総助の父を小幡駿河守(するがのかみ。不詳)としており、伝聞される内に内容が変わっていた可能性があります。

……確かに、いっときの出世に目が眩んで糟糠の妻を捨てるような男は、武士の風上にもおけない。その場でこそよい思いが出来ても、いつか武田家が傾いた時に

「アイツは目先の欲につられて義を忘れ、妻を捨てた男だ」

と軽んじられ、一生涯の恥を忍ばねばなりません。それは武士として、もはや死んだも同前です。

こうまで堂々と反論されてしまってはぐうの音も出ない家老たちは、そのことを信玄公に報告。

さすがの信玄公も「上総助こそは武士の中の武士ぞ。彼を手放さぬよう(縁づけようと)焦ってしまった我が過ちである」と非を認め、上総助に手厚く褒美を与えたということです。

終わりに

その後も上総助は妻を愛して忠勤に励み、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後は上野国へ侵攻してきた北条氏直(ほうじょう うじなお)に降りましたが、武田の名将(武田二十四将に数えられることも)とあって尊重されます。

やがて北条氏が天正18年(1590年)に滅ぼされると、かつて武田旧臣として伝手のあった真田昌幸(さなだ まさゆき)を頼って余生を送り、文禄元年(1592年)に53歳で世を去りました。

上総助の正室がいつまで生きていたかは不明ながら、上総助に愛された生涯が幸せであったことを願います。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年12月
黒田基樹『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年2月

 

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