15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】
鳥羽伏見の戦いは維新政府軍の勝利で終わり、旧幕府軍は大坂城における徹底抗戦で起死回生を図る。
しかし、慶喜は僅かな人々を伴い、1月6日の夜、突然大坂城を脱出。海路、江戸に逃げ帰り、その後は恭順謹慎に徹した。
前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】
今回はその後日談として、慶喜とともに大坂城を脱出した人々と慶喜東帰に関わった人々がその後の人生をどのように送ったか、その人現模様を紹介する。
【その3】では、恭順謹慎を良しとせず、維新政府軍と抗戦した人々、さらに大坂城に残留した人々のその後の生涯を追ってみた。
前回の記事
15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その2】
恭順を良しとせず、維新政府と戦った人々
【松平容保 ~会津若松で1か月にわたる過酷な籠城戦を戦う~】
旧幕府側の人物としては、誰よりも苦渋に満ちた人生を歩んだのが、松平容保といえるだろう。
江戸東帰後の容保は、慶喜に倣い恭順謹慎を行った。そして、維新政府に対し嘆願書を提出。仙台・米沢藩などの奥羽諸藩も、会津藩の許しを請う嘆願書を出したが、維新政府はことごとく無視した。
維新政府は、どうしても容保と会津藩を抹殺したかったのであろう。
これにより、藩内に渦巻いていた主戦派の怒りは頂点に達し、会津戦争が勃発。前後して、奥羽越列藩同盟の諸藩を巻き込んでの戊辰戦争に発展した。
容保と会津藩は、会津若松城で1か月以上にわたり、4万名近い維新政府軍の猛攻を凌いだが、力尽きて降伏した。その間、約3千名の藩士、2百人以上の婦女子が、この戦争で犠牲になった。
家老・萱野権兵衛が全責任を背負い自尽の上、一命を救われた容保は、和歌山藩などに預けられた後、維新後5年になる1872(明治4)年に赦され、江戸で暮らした。その後、日光東照宮宮司などを歴任し、1893(明治26)年、59歳で没した。
【松平定敬 ~会津戦争・函館戦争・西南戦争を歴戦~】
江戸東帰後、本領桑名へ戻ろうとするも、維新政府への恭順に決した桑名へは戻れなかった。そのため、飛び領地の柏崎を経て、実兄である松平容保と会津で合流した。
会津戦争が始まると、容保の依頼で米沢へ援軍要請に走り、会津降伏後に仙台で榎本武揚の旧幕府艦隊に合流、函館に移り、函館戦争を戦った。
函館戦争終結前に、アメリカ船で上海に亡命するも生活に窮し帰国、1872(明治4)年に赦免された。その後、英語を学びアメリカに留学、西南戦争に旧桑名藩士を率いて従軍するなど、波乱に富んだ人生を歩んだ。1908(明治41)年、61歳で没した。