15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その2】
鳥羽伏見の戦いは維新政府軍の勝利で終わり、旧幕府軍は大坂城における徹底抗戦で起死回生を図る。
しかし、慶喜は僅かな人々を伴い、1月6日の夜、突然大坂城を脱出。海路、江戸に逃げ帰り、その後は恭順謹慎に徹した。
前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】
今回はその後日談として、慶喜とともに大坂城を脱出した人々と慶喜東帰に関わった人々がその後の人生をどのように送ったか、その人現模様を紹介する。
【その2】では、慶喜の意を介し、恭順謹慎した人々のその後の生涯を追ってみた。
前回の記事はこちら
15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その1】
江戸東帰後、それぞれの人生
徳川慶喜の大坂城脱出は、真の意味で旧幕府の終焉だった。
慶喜が画策した天皇を頂点とし、慶喜が首班を務め、さらに諸侯やその家臣達が評議する「挙国一致の政治体制」がもろくも崩れたのである。
明治維新政府の要職は、薩摩・長州を中心とした人々が占め、そこには、旧幕府の誰もが参加できないという厳しい現実を意味していたのである。
慶喜とともに大坂城脱出をした人々、それに関わった人々は、いずれも旧幕府の要職にあった者達だった。
もし、慶喜が夢見た「挙国一致の政治体制」が成ったとしたら、その多くは大いに力を発揮したことだろう。
しかし、旧幕府が完全に終焉を迎えた時、彼らは、それぞれ信じた道を歩みだすしかなかった。
恭順の後、徳川家とともに生きた人々
【酒井忠惇 ~駿府預けの後、東照宮祀官を歴任~】
江戸東帰後に、老中罷免、官位剥奪の上、維新政府から隠居謹慎を命じられた。その後、駿府の徳川家達の預けとなった。
1872(明治5)年になり、華族に列せられ、1889(明治22)年には上野東照宮副祀官、その後、久能山東照宮宮司となる。1899(明治32)年、69歳で没した。
【浅野氏祐 ~徳川本宗家に寄り添った生涯~】
薩摩藩邸焼打ち事件など、江戸の情勢を伝えに大坂城に入ったその日が慶喜の大坂脱出当日という数奇な運命を担った人物。
慶喜からは、去留どちらとも随意という意向を示されたが、ともに東帰した。慶喜の水戸行に随行した後、徳川家達が駿府に入封されるとこれに従った。
1869(明治2)年の廃藩置県後、県知事に相当する静岡県参事に就任。1890(明治23)年からは公爵徳川家の家令を務め、1900(明治33)年、66歳で没した。生涯を通じて、徳川本宗家に仕えた。