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15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】:4ページ目

【塚原昌義 ~30か月にもおよぶアメリカ亡命の末、帰国~】

鳥羽・伏見の戦いの後、アメリカに渡り、約30か月の間、亡命生活を送った。1870(明治3)年、帰国しアメリカ領事館に匿われたが、翌年に自首した。

1872(明治5)年、赦免され、武田昌次と名を改め、維新政府に出仕した。その後、産業畑で活躍、コーヒー栽培などの研究で小笠原諸島に渡った。没年は不詳。

【竹中重固 ~上野・奥羽・函館を転戦。降伏後は殖産事業に尽力~】

 

江戸に戻った後、純忠隊を結成し、彰義隊とともに上野で維新政府軍と戦う。上野戦争敗退後は、奥羽各地を転戦、函館政権では海陸裁判所頭取を務めた。

函館戦争終結後に、東京に戻り投稿、福岡藩・竹中家預かりとなる。1871(明治4)年に北海道入植。一時、東京府に出仕したが、辞職後は殖産事業に尽力した。1891(明治24)年、64歳で没した。

全3回にわたり、「徳川慶喜・敵前逃亡の後日談」として、慶喜の大坂城脱出に深く関わった人々のその後の人生を紹介してきた。

その人生は、鳥羽・伏見や戊辰戦争で勝利した維新政府の人々と比べると、些細な存在なのかもしれない。しかし、その多くは、明治という激動の時代の中で、精一杯の後半生を歩んだのは確かであった。

また一方で、彼らの中で、一人も戦没者・刑死者がいないという事実もある。鳥羽・伏見、戊辰戦争での旧幕府側戦没者は8,500人以上といわれる(他説あり)。これを踏まえた彼らの歴史的評価は、再考すべきものがあるかもしれない。

3回にわたり、お付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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