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15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】:3ページ目

大坂城に残った人々のその後とは

【永井尚志 ~恭順派の代表であったが、函館戦争に参加~】

 

慶喜側近の中でも、恭順論の代表的な立場にあった。しかし、大坂城退去の折、慶喜から供を命じられるものの固辞し大坂城に残った

その理由を浅野氏祐に次のように語ったという。

●松平正質の帰還を待ち、鳥羽・伏見の敗戦理由を明らかにすること。

●その上で、大坂城に残る幕閣一同で維新政府軍に抗戦し、全員が討死すること。

●そうすることで、鳥羽・伏見の戦いが慶喜の本意でないことを示す。

江戸帰還後は、恭順とは正反対に、榎本武揚と行動をともにし、函館政権では函館奉行を務めた。

函館戦争に突入すると、五稜郭守備の要衝・弁天台場を守備したが、函館政権の中では最初に降伏した。降伏後は、五稜郭に籠る榎本に、頻りに降伏を勧告したともいう。1872(明治5)年、赦されて維新政府に出仕。1891(明治24)年、76歳で没した。

【松平(大河内)正質 ~徹底恭順に徹し、貴族院議員を務める~】

 

鳥羽・伏見の戦いでは、総督として旧幕府軍の指揮にあたった。慶喜大坂城退去時点では、まだ前線に滞在。しかし、副総督の塚原、陸軍奉行の竹中とともに、慶喜からは大坂城に残るよう命じられた。

これは、暗に旧幕府軍の責任者として、敗戦の責任を取り自尽するように慶喜が仕向けたとの説もある。だが、3人ともその意を介さず、あるいは従わずに江戸に戻っている。

江戸帰還後は、所領の大多喜に帰国、円照寺で謹慎した。さらに、維新政府に大多喜城を明け渡し、佐倉藩に預けられた。その後、まもなく所領を回復、官位も復位する。

旧幕府軍の総督でありながら、寛容な処置を受けたのは、速やかに城を開城したこと、旧幕府勢力からの勧誘に乗らずにひたすら恭順したことが評価されたとされる。

1869(明治2)年、大多喜藩知事に就任。1871(明治4)年からは、兵部省・宮内省などに出仕し、子爵に叙爵。その後、麹町区長、貴族院議員を務め、1901(明治34)年に没した。享年57歳。

4ページ目 竹中重固 ~上野・奥羽・函館を転戦。降伏後は殖産事業に尽力~

 

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