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15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

【板倉勝静 ~筆頭老中としての享受を全うする~】

 

従来温厚な性格であったが、開陽丸において慶喜から恭順謹慎の意志を打ち明けられた時には、色を成して反発したという。

維新政府により、江戸から宇都宮藩に移されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介率いる伝習隊により解放された。その後、奥羽越列藩同盟の参謀を務め、さらに函館の五稜郭で抵抗を続けた。

これを知った維新政府は松山藩を圧迫したため、家臣が函館に赴き、強制的に東京へ連れ戻した。自首した勝静は、上野安中藩で終身禁固刑に処せられた。

1872(明治5)年、特赦により赦免。晩年には、第八十六国立銀行、現在の中国銀行を設立するなどした。

大坂城で浅野氏祐に「責任は自分にあり、どんな責めも甘んじて受ける」と語ったことを実践した人生だった。1889(明治22)年、東京の私邸で没した。享年66歳。

【榎本道章 ~函館政権の会計奉行を務める~】

一橋家目付として、慶喜の将軍就任に尽力したこともあり、大坂城脱出に同行した。しかし、榎本武揚麾下の旧幕府艦隊の脱走に身を投じ、蝦夷地に渡った。

函館政権では、会計奉行を務めた。降伏の後、1870(明治3)年、開拓使に出仕した。1882(明治15)年没、享年48歳。

3ページ目 大坂城に残った人々のその後とは

 

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