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前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】:2ページ目

2.慶喜東帰の真相とは「深慮説」

この説も半ば尊王説と被るところがある。天皇の存在を絶対的なものと考える慶喜にとって、将軍職や幕府は、来るべく国家体制には不必要なものであった。

欧米列強に対抗するためには、一刻も早く天皇を頂点にした挙国一致の政治体制の確立が必要だった。もし、慶喜が執拗に薩長を中心とする維新政府に反抗すればするほど、内戦が長引くことになる。

慶喜が江戸に戻り、兵力を整え、維新政府軍を迎え撃つなり、京都へ攻め上りなりすれば、薩長の討滅など難しくなかった

にもかかわらず、慶喜はそれをよしとせず、臆病者との誹りを受けながらも恭順謹慎に徹しひとえに内乱を回避した。

このことは、1月23日に勝海舟が示した二者択一案も影響を与えたと考えられる。

自分(海舟)が艦隊を率いて、駿河の海岸に兵を上陸させ官兵を阻止するとともに、艦砲射撃をもって殲滅します。

その上で、軍艦で大坂湾に乗り入れ、西国・中国の海路を閉鎖すれば、敵には最早打つ手はなくなるでしょう。

我が軍の軍事力をもってすれば勝算は十分です。しかし、それ以降は終わりの見えない戦乱になることは必至でしょう。

もし、上様がおやりになれとおっしゃるなら、我らは一死をかけてやりますぜ。お覚悟のほどは、いかがか。(『勝海舟上書』)

勝の半ば脅迫ともとれる提案を慶喜は否決した。その上で、2月21日幕臣一同に不戦を徹底する由の沙汰書を下した。

慶喜の行動は、たとえ自分と幕府を犠牲にしても、あくまで日本の将来を深く考えてのものであった。慶喜がいたからこそ、明治維新は成ったのである。

このような評価は、現在放映中の大河ドラマ『青天を衝け!』の主人公・渋沢栄一が編纂した『徳川慶喜公伝』によりところも大きいかもしれない。

明治に入り、長らく謹慎して表に現れなかった慶喜に代わり、明治維新を創成した最大の功労者は「まごうことなく徳川慶喜である」ということを世に広めようとしたのだ。

慶喜の孫にあたる榊原喜佐子は後年以下のように語っている。

おじじ様は天子様に政治をお返しあそばれたのです。

おじじ様がいらっしゃったから、御一新ができたんでございますよ(榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』)

3ページ目 3.慶喜東帰の真相とは「変節説」

 

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