前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】:4ページ目
まとめに代えて・慶喜恭順の代償
3回にわたり、徳川慶喜がなぜ大坂城から逃げ出したのかを考察してきた。
「尊王説」「深慮説」「変節説」はいずれも可能性がありそうだが、どれが真実であるかは、残念ながら確証はできない。
そこで、最後に私見を交えながら、まとめに代えたいと思う。
徳川慶喜の人物像を俯瞰すると、とびぬけて頭が良く、弁の立つ人物だというのは間違いないだろう。しかし、反面、優柔不断な部分も併せ持っていた……という印象もぬぐい切れない。
歴史とは面白いもので、大きな転換期に、このような人物にその判断を委ねたのだ。
その後の歴史を紐解いてみると、
明治維新政府は、富国強兵・殖産興業をスローガンに帝国主義の道をひた走った。その中心は、薩摩・長州の2藩による藩閥政治、すなわち政治独占形態だった。
もちろん、そこには慶喜が目指した挙国一致の政治体制は微塵もなかった。
そうなることを賢明な慶喜は見抜くことができなかったのか、それとも、ここでも逃げを打ったのか、それは慶喜だけが知ることだろう。
3回にわたり、お読みいただきありがとうございました。