前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】:3ページ目
3.慶喜東帰の真相とは「変節説」
尊王説・深慮説はともに、慶喜のひとえに朝廷を重んじる精神と自己犠牲によるもので、言い換えれば、慶喜を称える説である。
しかし、これから述べる変節説は、慶喜の人間像を貶めるものといえるだろう。
では、慶喜の変節とは何か。それは、1月7日の開陽丸上での慶喜と松平容保の会話に対しての会津藩の所見から伺える。
あのように勇ましい演説を行い、我が軍の士気が大いに盛り上ったのにもかかわらず、何故、こうも急に東帰することを決心されたのか。(松平容保/『会津戊辰戦史』)
あのような調子でやらなければ、皆が奮い立たないからだ。あれは一種の方便だよ。(徳川慶喜/『会津戊辰戦史』)
この会話に対し、会津藩はこう所見した。
5日に大坂城大広間で内府が述べたことは、心からそう思ったことであったに違いない。
その時は、維新政府軍と徹底抗戦をしようと決意していたのだ。しかし、この後に例の変節病が頭をもたげ、急な東下を決心したのだ(『会津戊辰戦史』)
会津藩がいう「変節病」とは何を指すのか。文芸評論家の野口武彦氏は『鳥羽伏見の戦い』の中で、こう指摘している。
それは、1866年の第二次長州征伐の折、旗本一同を集めて、「たとえ、千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦を決する覚悟なり」と大見得を切りながら、前線の敗退を知るとたちまち意気阻喪し、止戦を願い出て孝明天皇の怒りをかった。
大坂城大演説で、「城を枕に討死」と大見得を切っておきながら、鳥羽伏見で味方の敗戦を前にすると、意気阻喪して、江戸に逃げ帰った。
この慶喜の言動は、長州征伐でも鳥羽・伏見でも、そっくりだというのだ。そして、野口氏は、慶喜の変節病の原因を「臆病風」と言い切った。
慶喜を将軍に推した人物の一人・松平春嶽(しゅんがく)[越前福井藩主]もまた慶喜の人間像についてこう述べている。
慶喜公は、才知優れた人物だ。
しかし、あまり知る人はいないと思うが、とても肝の小さな性質なのだ。胆力が小さい故、なにごとも決断することができない。(『逸事史補』)
戦うも、戦わないも決断ができない。慶喜とはそういう人だ。余りにも辛辣な春嶽の見方である。
「禁門の変」の折、死に物狂いで御所に攻めかかる長州軍を相手に、御所を死守した慶喜はどこへ行ったのか。
銃弾が激しく飛び交う最前線で、文字通り長州兵と切り結んだ慶喜は、本当に小心で臆病者だったのか。
時流が自分に向いているときは強いが、一旦その流れが逆流になると、とたんに弱くなってしまうのだろうか。
目の前に迫る維新政府軍も怖い。さらに、徹底抗戦の上に万が一敗れたら、確実に死罪は免れない。事実、江戸東帰後に、和宮が慶喜の助命嘆願をとりなした。
これに対し、大久保一蔵(利通)は、はっきりと突き放している。
和宮にとりなしを依頼するなど、あほらしいことだ。
朝敵として親征まで決まっているというのに、謹慎くらいで謝罪とするなど愚弄するのも甚だしい。(『大久保利通文書』)
抗戦か、恭順かと迷っているうちに、恐怖感がどんどん押し寄せてくる。
臆病風に取り付かれた慶喜は、恐怖のあまり、大坂城から江戸に逃げ帰った……ということなのであろうか。