すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード:2ページ目
長宗我部家からの婿養子を巡り、骨肉の争い
「何と……養父上、いや兄上!お気は確かか!」
時は弘治2年(1556年)、親秀は長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)の三男・親泰(ちかやす。弥七郎)を婿養子に迎えることを提案したのでした。
「孫十郎よ、そなたの娘を弥七郎殿に娶(めと)らせよ。弥七郎殿は英明と聞き及ぶゆえ、必ずや香宗我部の家を盛り返してくれよう」
「……それは我が嫡男・権之助に対する侮辱と見てよろしいか?みだりに弥七郎を迎えれば遠からず御家騒動の因となりかねず、また長宗我部の威勢を恐れてのことかと笑われましょうぞ!」
そもそも、自家の命運を他家からの養子に恃むなど愚の骨頂、武門の恥辱と憤る秀通を、なおも親秀は諭します。
「……表向きはそうも見えようが、この伝手をもって逆に長宗我部を乗っ取るのじゃ」
「ご自身で『弥七郎が英明』だの云々と申されたのをお忘れか……彼奴(きゃつ)はそう容易く操れる虚(うつ)けにはございませぬ。どうか、ご再考召され!」
議論は平行線をたどったまま結論に至らず、やがて骨肉の争いが勃発。このままでは香宗我部家が滅びてしまう……しびれを切らした親秀は10月21日、ついに秀通を暗殺してしまいました。
(孫十郎よ、許せ……これも香宗我部の為ぞ!)
「おのれ兄上……権之助、新助、そなたらだけでも逃げ延びよ……!」
「「父上……っ!」」
権之助と新助は母方の実家である細川定輔(ほそかわ さだすけ。宗桃)に保護されて事なきを得ます。
かくして男子のいなくなった香宗我部家は弘治4年(1558年)、弥七郎を婿養子にとってその家督を継がせ、親秀はその補佐を務めたのでした。