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すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード

すべては御家のため…戦国時代、骨肉の争いを繰り広げた香宗我部 兄弟のエピソード

伯父と和解して、香宗我部家を盛り立てる

さて、父・秀通を殺され、身を潜めていた権之助と新助は、やがて元服して香宗我部秀長(ひでなが)、香宗我部秀政(ひでまさ)と改名。苦難の日々を送っていたところへ、父の仇である伯父・親秀から便りがありました。

「父上の事については、本当に申し訳なかった。これも香宗我部の家を思ってのことゆえ、どうか堪忍してもらいたい。家督を継いだ弥七郎殿は見込み通りに英明で、主君となった長宗我部家の右腕として大いに辣腕を奮っている。どうかそなたたちも戻ってきて、弥七郎殿を補佐してもらいたい……(大意)」

ただし、今や弥七郎が継いだ香宗我部を称するのは何かと不都合なので、親秀の隠居料(領地)である中山田(なかやまだ。現:高知県香南市)が譲られ、その地名を称することに。

また、香宗我部≒長宗我部家に臣従する証として、秀長は弥七郎の諱(いみな。実名)である親泰から「泰」の文字を拝領して中山田泰吉(なかやまだ やすよし)と改名。父と共に香宗我部家を盛り立てたのでした。

本来なら自分がその座に就くはずだった香宗我部家に仕える胸中は察するにあまりありますが、すべては御家のためと覚悟して、忠勤に励んだ泰吉の潔さが胸を打ちます。

その後、泰吉は親泰とその嫡男・香宗我部貞親(さだちか)の2代にわたって仕えますが、関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)で主君の長宗我部家と共に香宗我部家も改易(かいえき。所領没収)されると、新たに土佐国を治めることになった山内一豊(やまのうち かずとよ)に仕えました。

伝えるところによると泰吉は寡黙で礼儀正しく、知勇を兼ね備えていたため人々から敬愛されており、そんな泰吉が従うのなら、と中山田の領民たちは、よそ者である新領主・山内家にも(比較的)素直に従ったということです。

エピローグ

泰吉は元和5年(1619年)1月22日に76歳で天寿をまっとうしますが、彼らの子孫は代々栄え、土佐藩士として活躍するのでした。

そして後世、子孫の一人である陸軍軍人・武田秀山(たけだ ひでのぶ)によって顕彰碑(香宗我部秀通公碑。高知県香南市)が建立され、彼らの遺業を現代に伝えています。

※参考文献:
山本大『長宗我部元親』吉川弘文館、1987年12月
川口素生『戦国名物家臣列伝』学研M文庫、2008年6月

 

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