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一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】:2ページ目

忠義ゆえの裏切りが裏目に……

時は戦国末期、この吉川家はかつて中国地方に覇を唱えた戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)が、次男・元春(もとはる)を養子に送り込み、三男・隆景(たかかげ)を送り込んだ小早川(こばやかわ)家と共に毛利家(嫡男・隆元-たかもと)を支える「毛利両川(もうりりょうせん)」体制の一翼として重要な位置を占めた家柄でした。

しかし、関ヶ原の戦い(慶長五1600年)において石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍に属した吉川広家(ひろいえ)が、東軍の大将である徳川家康(とくがわ いえやす)と密約を交わします。

「(名目上)西軍の総大将である毛利家は合戦に参加させない代わり、戦後に所領の維持を安堵(あんど。保証)して欲しい

密約を了承し、毛利家の大軍が動かなかったお陰で、不利な戦況を切り抜けられた家康は、両川のもう一翼であった小早川秀秋(ひであき)の東軍寝返りもあって、見事に勝利を収めることが出来ました。

家康の勝利に大きく貢献した「毛利両川」三家はこれで安泰……かと思いきや、家康は実にあっさりと裏切ってくれやがったのです。

「名目上とは言え、西軍の大将である毛利家を赦す訳には行かぬ……確かに所領を安堵するとは申したが、それは吉川家のみであって、毛利など知らぬ

そんな理不尽な……といくら憤ったところで徳川の勝利が確定的となった以上、もはや後の祭り。広家は家康の「古狸」ぶりを痛感させられたのでした。

「お待ち下され!それがしの所領を分割してでも、どうか毛利家の存続だけはお許しを……っ!」

毛利家を思えばこそ、次世代のリーダーと見込んだ家康に「貸し」を作ろうと密約したのに……その忠義が裏目に出てしまった広家は必死に懇願。自分が裏切りの恩賞として得る筈だった領地を、毛利家に献上することを許されます。

それでも一説には実質200万石を超えるとも言われた中国地方の覇者が、約1/7の約30万石まで減封(領地削減)されたとあって、毛利家は窮乏生活を強いられることになります。

以来、吉川家は代々毛利家に負い目を感じながら、どれほど冷遇されようとも懸命必死に奉公してきたのでした(※ちなみに、小早川家は秀秋の急死によって無嗣改易=後継ぎがいなかったため御家断絶、領地も全没収されています)。

3ページ目 毛利家との融和協調、人材育成に黒船来航

 

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