一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】:3ページ目
毛利家との融和協調、人材育成に黒船来航
……そんな広家から12代目の岩国領主となった経幹は、とかく毛利宗家との融和協調に努め、一族を挙げて忠勤に励みました。
また、人材育成の要を感じて弘化四1847年に岩国領の直営学校・養老館(ようろうかん)を創設。子弟たちに文武両道を教えると共に、入学や進級にテストを実施する考試制度を導入。身分や家柄にとらわれない実力主義の普及によって、後に多くの志士を輩出しています。
もちろん自身も日々研鑽して岩国治政に手腕を発揮する生活の中で、正室に順子(木下利愛の娘)を迎えますが、子供が生まれなかったため、側室に井上圓治の娘(本名は不明)を迎えました。
それから安政二1855年8月26日に長男・芳之助(よしのすけ。後の吉川経健)、同六1860年12月24日には三男・重吉(ちょうきち)を授かっています(次男は早世)が、重吉は4歳になった文久三1863年、主君・毛利敬親(もうり たかちか)の養子という名目で人質に出されています。
時は前後しますが、嘉永六1853年6月3日にアメリカ海軍の提督ペルリが浦賀に来航した際は江戸警護のために出兵しており、当時25歳だった経幹もまた、たった四杯(隻)の上喜撰(じょうきせん=蒸気船)に夜も眠れぬほど興奮し、列強と渡り合える人材育成に改めて要を痛感した事でしょう。
文字通り毛利藩の柱石として岩国を治め、各地を奔走していた経幹にも、間もなく幕末維新の嵐が迫り来るのでした。
※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年