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平安時代の超イケメン貴族・在原業平、単なるチャラ男ではなく野心家でもあった

平安時代の超イケメン貴族・在原業平、単なるチャラ男ではなく野心家でもあった:3ページ目

ところが、素顔の業平は”多情の人”でもあると同時に、”多恨の人”でもあったようです。先述したように業平の祖父は、やらかしてしまった平城天皇。孫でもある業平は出世コースから完全に外されてしまっていました。そんな業平でも25歳になるとようやく従五位に叙せられました。

それでも業平には希望があったようです。ときの皇太子・道康親王の長子・惟喬親王の生母・静が、業平の妻の実家から出ていたため、道康親王が即位して惟喬親王が皇太子になれば、業平の境遇も一気に変わる可能性がありました。

850(嘉祥3)年、仁明天皇が崩御し、道康親王が即位しました。後の文徳天皇です。ところが、文徳天皇が皇太子にしたのは惟喬親王ではなく、同年に誕生したばかりの第四子・惟仁親王(のちの清和天皇)でした。惟仁親王の母親・明子の父親は、時の権力者・藤原の良房で、若い天皇にとっては良房は外舅。良房の権勢の前に不本意な立太子が余儀なく行われたのでした。

とうとう出世のための希望が潰えた業平は以後、その絶望から気を紛らわすかのように和歌と恋愛の道に突き進むことになりますが、それでも栄華を追う夢は捨てきれなかったようです。

『伊勢物語』第97段には、業平が良房の栄華がいつまで続くように“おべっか”を使ったと思われる和歌も残されています。業平がその生涯に得た最高位は53歳のときに任ぜられた右近衛中将でした。

在原業平は後に、六歌仙・三十六歌仙の一人として選ばれています。彼の生きた時代、その晩年たるや、どんな心持だったのでしょうか。

参考:

 
 

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