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頼朝公の挙兵を前に一族が敵味方に訣別する葛藤と決断を描いた歴史演劇「鎌倉四兄弟」とは?

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三男・豊田平次郎景俊(とよだの へいじろうかげとし)

相模国大住郡豊田郷(現:神奈川県平塚市北西部)を治めるため「豊田」を称するが、鎌倉一族の所領でも突出しているため、敵対勢力に囲まれながら、和平交渉や小競り合いで所領の維持に苦心している。

ところで、次男(景親)と三男(景俊)で「三郎」と「次郎」が逆転しているのは「それぞれ母親が違うから」という説もあって、複雑な家庭環境が推察される。

四男・俣野平五郎景久(またのの へいごろうかげひさ)

相模国鎌倉郡俣野郷(現:神奈川県藤沢市と横浜市の境界地域)を治めたため「俣野」を称しました。

四兄弟一の豪傑、角力(すまい。相撲)の名手で、かつて禁中(朝廷)で催された相撲節会(すまいのせちえ)で三年間無敗を誇ったと言われます。

ちなみに四男なのに「五郎」と呼ばれるのは、四兄弟には妹(波多野義常室)がおり、彼女が四番目に生まれたため、景久は「五番目が男子」という意味で五郎となった、という説もあります。

その他の鎌倉一族

四兄弟以外にも鎌倉一族には後に頼朝公の懐刀となる梶原平三景時(かじわらの へいざかげとき)や、かの「越後の龍」上杉謙信の祖先に当たる長尾新六定景(ながおの しんろくさだかげ)など、魅力的な武将が数多く登場しますが、ここでは割愛します。

また、彼らの葛藤や、決断の結果については「興味を持った方が、自分で調べて下さることが、何より彼らへの供養となる」という原作者の意向を酌みたいと思います。

4ページ目 郷土史の発掘と再評価

 

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