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妖怪伝説まで?「讃岐廃帝」とも呼ばれ、不遇のうちに亡くなった天皇・崇徳院とは?

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壮絶な恨みを抱き、ついには妖怪伝説まで・・・

讃岐へ流されてからの崇徳院の生活は、壮絶なものだったと伝えられています。

仏教に傾倒した崇徳院は、五部大乗経の写本を「京の寺に納めて欲しい」と朝廷に差し出したのですが、後白河天皇は「呪詛が込められているのでは」と疑い、受け取りを拒否。

崇徳院はこのことに激怒し、なんと自分の舌を噛み切って流れた血で、送り返された写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書いたということが『保元物語』に記載されています。

その後の崇徳院は、爪や髪を伸ばし続け、まるで夜叉か妖怪かというような凄まじい姿で亡くなりました。


崩御した崇徳院の棺からは、ふたを閉めてあるのに血が溢れ出て来たとも、生きながら天狗になったとも伝えられていて、その恨みが相当深かったことが窺えます。

その後、京で大火や雷雨など災害が起こる度に、人々の間では「崇徳院の祟りである」とまことしやかに囁かれました。『雨月物語』『椿説弓張月』などにも崇徳院は「怨霊」として描かれ、そのイメージは現代に至るまで定着しています。1868(慶応4)年、明治天皇によって崇徳院の神霊が京へ帰還させられ、白峯神社が建てられました。


崩御からおよそ700年、悲劇の廃帝はようやく京都へ戻ることができたのです。

 

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