流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【中編】
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流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【前編】
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理想と現実の板挟みー信長との対立
将軍としての義昭の理想は次第に、信長の現実的な野心と次第に衝突するようになります。信長は義昭を支える一方で、実際には幕府の権威を利用して自身の支配を広げる戦略を進めていました。義昭はこれに危機感を抱き、1570年代には信長に対抗するため「信長包囲網」を築きます。
義昭は毛利氏や本願寺などの反信長勢力を結集し、信長の野望を阻止しようとしました。この動きは、義昭が単なる傀儡ではなく、独自の理想を持った指導者であったことを示しています。しかし、信長の軍事的優位と戦略の巧みさの前に、義昭の努力は実を結びませんでした。
1573年、義昭は信長によって京都を追放され、室町幕府は実質的に終焉を迎えます。しかし義昭は諦めず、西国へと活路を見出したのでした。
鞆幕府の誕生―備後国への下向
1576年、義昭は備後国の鞆の浦(とものうら)に移り住みます。将軍の座を失った後も理想を追い続けました。
この地を選んだ背景には、足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた由緒がある場所であり、さらに10代将軍足利義稙が大内氏の支援を得て京都復帰を果たした「吉兆の地」としての意味がありました。
鞆で義昭は「鞆幕府」を樹立し、毛利氏の支援のもと、全国の武士や旧室町幕府の家臣たちに呼びかけて反信長勢力を結集しました。鞆幕府は義昭を筆頭に、かつての幕臣や織田氏と敵対する諸大名の子弟などが集まる総勢100名以上の勢力を持つに至ります。
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