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即位式もできないほど窮乏!天皇家は「応仁の乱」で焼け野原になった京都でいかにして生き延びたのか?

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それでも残った天皇家

結局、天皇が即位式を挙げたのはそれから21年後のことです。本願寺の実如や幕府からの献金によって、1521(大永元)年にようやく念願を果たすことができたのです。

ちなみにこの後柏原天皇は、このように天皇家にとって当たり前の儀式が行えなかった状況にかなり心を痛めていたようで、先帝の代から乱れていた朝儀の復興に尽力しました。

例えば元日の節会、仏教的な宮中の年中行事である大元師法の修法、国家鎮護の密教修法や春日祭・賀茂祭への勅使派遣など、朝儀の再興につとめています。

応仁の乱後のこうした天皇家の状況は、次の後奈良天皇以降も続きました。

皇位に就いても即位式さえ挙げられず、戦国大名らの献金によってようやく暮らしていくほど、応仁の乱以降の天皇家の生活は窮乏していたのです。

しかし重要なポイントは、それでも天皇家が廃絶することはなかったという点です。例え権威が失われ、幕府にとっても当面の利用価値がなくなったとしても、大名たちの援助がなくなることはありませんでした。

天下を狙う戦国大名たちにとって、官位を叙任できるという点などでまだまだ朝廷の権威には大きな魅力と権威があったのでしょう。

参考資料:山の辺の道 散策ガイド
画像:photoAC,Wikipedia

 

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