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幕末期に悲劇的な最期を迎えた「彰義隊」トップ2のサムライ!大きく分けた人生の明暗

幕末期に悲劇的な最期を迎えた「彰義隊」トップ2のサムライ!大きく分けた人生の明暗:2ページ目

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2024/10/06

それぞれのその後

彰義隊は、慶喜が水戸へ移ってからも上野に居座り続けます。新政府軍と最後の一戦を交えようという者たちが全国から集まってきて、その人数は一時は3000人以上に膨らみました。

しかし、いざ新政府軍が攻撃を開始すると彰義隊は一日で壊滅。100名以上の戦死者をだし、残りは散り散りに逃げるばかりでした。

天野も逃亡して市中に潜伏しますが、密告によって捕えられ、獄中生活五か月余で病気により獄死しています。その遺体は小塚原に遺棄されるという悲惨な末路を辿ったものの、彼は拷問に耐えて『斃休録』一巻を遺しました。

一方、天野と袂を分かった渋沢も、箱館で敗北した後に官軍に逮捕されています。

その後、1871年の出所後に渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕。1873年に出張先のイタリアから帰国すると退官して小野組に入社、同社の破産後に渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立します。

さらに後年は東京深川で回米問屋、神奈川横浜で生糸売込問屋を経営しました。東京商法会議所設立発起人、深川正米市場初代総行事、東京商品取引所理事長、大日本人造肥料取締役なども務めています。

同じ彰義隊出身の渋沢成一郎と天野八郎ですが、二人の人生はこれほどまでに異なっていました。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

 

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