幕末期に悲劇的な最期を迎えた「彰義隊」トップ2のサムライ!大きく分けた人生の明暗
彰義隊結成の経緯
徳川幕府の最後の将軍である徳川慶喜は、1868(慶応4)年2月11日、新政府に対して恭順の意を示し、翌日に上野の寛永寺に蟄居しています。
しかし、新政権に不満をもつ幕臣たちが慶喜の警護を名目に上野の山に集まり、彰義隊(しょうぎたい)という組織を作りました。彰義隊の名称は「大義を彰かにする」という意味に由来しています。
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ただし徳川方は、彰義隊が新政府に対抗する軍組織と見られることを恐れ、江戸市中取締を任じて表向きは慶喜の警護と江戸の治安維持を目的とするとしていました。
リーダー・天野八郎
この彰義隊の中心人物は、当初、慶喜の出身である一橋家に仕える渋沢成一郎(頭取)と、隊士から人望のあった天野八郎(副頭取)の二人でした。
渋沢は幕末に従弟の渋沢栄一らとともに攘夷運動をしていた人物。後に一橋家に召し抱えられて徳川慶喜に仕えるようになったという経歴の持ち主です。
一方の天野八郎という人物は、日本史上ではあまり知名度は高くありませんが『てなもんや三度笠』で登場したのをご存じの方も多いかも知れません。
この彰義隊は江戸の市民から慕われました。ところが無血開城後は隊の路線をめぐり、渋沢派と天野派が対立。渋沢派は隊を離脱し、新しく振武軍という組織を結成します。
この振武軍は、後日、武蔵国飯能(埼玉県飯能市)で官軍を相手に激戦を繰り広げることになります。
一方、彰義隊では頭取を譜代の幕臣から選出することになり、大目付・本多邦之輔が選ばれましたが、すぐに辞任。代わって、御使番の小田井蔵太と大目付の池田大隅守の二人が隊長となりました。
しかし、常に実権を握っていたのは副隊長の天野でした。彼は度胸があり、人間的にもスケールの大きな人物だったので自然とリーダーとして扱われたのです。
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