「大坂の陣」の籠城戦は既定路線だった?真田信繁の先制攻撃の主張に関する誤解を検証:2ページ目
浪人主体の先制攻撃の危うさ
史料によってニュアンスは異なるものの、籠城戦は重臣たちによる一方的な決定だったと思われます。
例えば、江戸時代初期の禅僧・金地院崇伝による『本光国師日記』には、浪人の方から城に引き籠ったと記されています。
18世紀初頭に完成した家康の伝記『烈祖成績』でも、籠城の準備が整った後に信繁が先制攻撃を献策して、籠城派の又兵衛が異を唱えたとあります。順序が逆なのです。
後者は時代が下る史料ではありますが、いずれも重臣たちの無理解から籠城戦になったという通説とは異なります。おそらく話し合いの結果、籠城戦に傾いたのでしょう。
籠城戦は既定路線だった?
豊臣軍の内情を鑑みて、そもそもはじめから籠城戦に決定していたのではないか、という説もあります。
先に挙げた『本光国師日記』によれば、豊臣家に仕えていた織田信長の次男・信雄が、開戦直前に大坂城から逃亡したといいます。それは迫る敵軍に恐怖したとも、元から徳川家のスパイだったからともいわれているのです。
家臣から脱走者が出たぐらいなので、豊臣家が出自のわからない浪人勢を信用できなかったとしても無理はないでしょう。
戦いから間もない時期の史料である『当代記』(1624~44)にも、豊臣方が団結しないまま開戦準備を進めたという記述があります。
重臣たちが浪人勢の裏切りや逃亡に警戒していたとすれば、監視のできない野戦を採るのは不安だったはずです。
渡邊大門氏などの一部の研究者は、信繁や又兵衛も同様に、浪人勢を信用していなかったのではないかと推測しています。
籠城後、豊臣家に味方した浪人たちから逃亡者が続出していることを勘案すると、先制攻撃を選択したとしても失敗していた可能性が高いと言えるでしょう。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia