幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた
特殊な稼業、山田浅右衛門はいつ誕生した?
武士の身分があった時代は「斬首(ざんしゅ)」という極刑がなされていました。この斬首を代々行っていた「山田家」という武家がいたのをご存知でしょうか。
江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた当主は代々「山田浅右衛門」と名乗っていました
こちらの記事にもありますが、今回は初代と幕末の八代目の話を盛り込みたいと思います。
実はかなりの高収入!試し斬りの高スキルを代々継承した江戸時代の死刑執行人「山田浅右衛門」とは?
正確には幕臣ではなく、明治に廃業するまで「浪人」という身分でした。初代は1600年代ごろの「山田浅右衛門貞武(さだすけ)」。
豊臣秀吉の配下だった谷衛好(たにもりよし)は、試し切りの腕が良く独自の試刀術を編み出しまし、のちに「谷流」という流派が出来上がります。
江戸初期の頃、谷流をくんだ山野永久という名手がおり、その息子の久英の代から正式に幕府の試し斬り役として働き始めたといいます。しかしその後は実子に技量を持つものが現れなかったため、弟子の一人に家業を継がせることになります。
それが浪人の山田浅右衛門貞武でした。
貞武は自身の子にも御様御用を継がせたいと幕府に願い、これが許可されたことから、代々御様御用と斬首刑の役を務める山田家が誕生しました。
しかし、生涯浪人だったのはなぜでしょう?
三代将軍・吉宗の代でその機会があったにも関わらず、申し出る機会を失ったからだとか、旗本に取り立てると技量が立つ者が相続できない場合に困るから、臨時雇いのような状態が幕府にとって都合がよかったからだ…とか諸説ありますが、はっきりとした理由はわかっていません。