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幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた

幕末には吉田松陰も斬首。当主代々、斬首刑を執行していた処刑人「山田浅右衛門」、実は明治時代まで続いていた:2ページ目

八代目には裏八代目がいた?

七代目は特に腕が立ち、遠山金四郎景元や土方歳三からも刀の鑑定を依頼されたといいます。また、執行人として幕末期の有名な吉田松陰や橋本左内の処分も行ったそう。

八代目には影武者ともいえる、弟の「山田吉亮(よしふさ)」という人物がおり、彼は兄弟の中では最も多く刑場で刀をふるったといいます。家督を継いだのは八代目ですが、腕が良かったのは吉亮だったそうな。

彼が明治期に語ったところによると、やはり人の命を絶つということは慣れるものではなく、斬首のあった夜は気分が静まらず眠れなかったため、酒宴をおこなっていたようです。

そのため、周囲からは「山田家は怨霊に取りつかれため、毎晩騒いでいるのだ」などと良からぬ噂もたてられたことがあるそうです。

人の首を斬るときは骨の位置を見極め躊躇せず振り下ろし、相手を苦しめないようすみやかに絶命させることが大事であり、この仕事は、殺される人のためにはそれほどの腕がないとだめだということで、決してこの一家が残忍な嗜好性があったからということではないのです。

それどころか日々他の武士よりも剣術の研鑽も積まなければならないのは尚のこと、武士は必ず詠むといっていい辞世の句の心情を理解するため、俳句の道に通じるよう、教養も高めていたそうです。

明治時代に入ると「東京府囚獄掛斬役」という役職を与えられ執行人を務めていましたが、明治七年に絞首刑が極刑となり斬首ではなくなったことや死体の試し切りも禁じられるようになったため、山田家は廃業となりました。

しかしその後も裏八代目の吉亮にはたびたび依頼があり、明治十五年の七月二十四日が最後の仕事だったそうです。

参考:『幕末維新あの人のその後』(PHP文庫)

トップ画像:国際日本文化研究センターデータベースより

 

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