平安京の応天門が炎上!平安時代に起きた事件「応天門の変(おうてんもんのへん)」とは?
これまであまり平安時代に興味がなかったという方も、2024年の大河ドラマ『光る君へ』をきっかけに、関心を持つようになったケースもあるのではないでしょうか?
華やかなイメージが先行するあまり、なかなか詳しいことがわかりにくい平安時代。戦乱の世というわけではなく、たしかに「平安」ではあったものの、平安時代にもさまざまな事件がありました。
そこで、今回の記事では、そのなかでも特に謎の多い「応天門の変(おうてんもんのへん)」について迫ってみたいと思います。
応天門の変にかかわる重要人物たちと彼らの関係
応天門の変にかかわる重要な人物として、時の左大臣・源信(みなもとのまこと)、大納言・伴善男(とものよしお)が挙げられます。
伴氏は古くからの名族でした。ちなみに大納言は右大臣の下の位ですので、左大臣の方が地位が高いです。源信と伴善男は不仲であり、政治的なライバル関係にありました。
一説によれば、伴善男は源信を失脚させ、左大臣の座に右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)を、空いた右大臣の座に自分が就くことを望んでいたとも言われています。
また、貞観6年(864年)に伴善男は源信に謀反の恐れがあると噂を立てますが、これが大きく取り上げられることはありませんでした。
さらに、太政大臣・藤原良房も事件に大きくかかわってきます。
応天門が炎上する
応天門は、平安京の中心とも言える建物である「朝堂院(ちょうどういん)」の正門です。貞観8年(866年)3月10日、当時の政治の中心地であったこの建物に、何者かが火を放ちました。応天門は炎上し、朝廷は大騒ぎに。
一歩間違えれば天皇の身にも危険が及んでいたかもしれないこの事件。直後、伴善男は源信が犯人だと告発します。告発を受け、右大臣・藤原良相は捕縛命令を出します。
すぐさま源信の屋敷は包囲されるのですが、あまりの展開の速さに、第56代天皇・清和天皇の耳にも入っていなかったと言われています。