薩摩藩vsイギリス「薩英戦争」実は善戦していた薩摩藩!そのうえイギリスとも仲良しに:3ページ目
災い転じて……
さて、その後どうなったかというと、和平交渉においてイギリスと薩摩藩は、かえってその距離を縮めることになりました。
薩摩藩は、この戦争でイギリスの強さを思い知らされました。これほどの戦力差があっては、外国人を討ち払う「攘夷」は不可能だと気づいたのです。藩内では、むしろイギリスと親交を深めるべきだという意見が出るようになりました。
また和平交渉を経て、イギリスも薩摩藩に対して興味を持ち始めました。この縁があって、のちにイギリスは薩摩の討幕運動をバックアップする形になり、武器弾薬を輸出するようになります。
さらに薩摩藩にとってラッキーだったことがあります。薩英戦争の和平交渉によって二万五千ポンド(およそ七万両)をイギリスに支払っていますが、藩としての金銭的負担は軽く済んでいるのです。
なぜかというと、この賠償金は幕府からの借用金で支払ったからです。これを完済しないうちに幕府が倒れたため、うやむやになってしまったのでした。
また、うやむやといえば、生麦事件の実行犯の引き渡しについてもそうです。結局「逃亡中」ということで犯人は処罰されていません。
このように見ていくと、薩英戦争というのは、薩摩藩にとっては「災い転じて福となす」あるいは「棚からぼた餅」と言える出来事だったことが分かるでしょう。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年