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【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】

【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】:2ページ目

一度断絶した鎮目家を再興

●惟明(これあきら)
半次郎 市左衛門 母は虎泰が女。
天正十年東照宮甲斐国に入せ給ふの時初めて拝謁す。是時父惟真老年にをよびしにより、惟明をもつて御麾下に列せしめむ事を請奉りしかば、めされて御傍に近侍す。時に十五歳 文禄元年台徳院殿に附属せられ、慶長五年真田昌幸が籠れる信濃国上田城を攻給ふのとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬允康成が手に属し、苅田の事を奉行し、城近くにいたるの時、城中より軽兵を出しこれを追はらはむとせしかば、惟明をよび小野次郎右衛門忠明、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、中山勘解由照守、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣政等七人鎗をあはせ、太田甚四郎吉正は鎗脇にて敵を射、城中に追ひ入。世にこれを上田の七本鎗と称す。後惟明等軍令を犯せしことをとがめられて、上野国吾妻に蟄居せしめらる。六年赦免あり。七月十五日舊領を賜ひ、七年加増ありて、すべて千六百石を知行し、大番の組頭をつとむ。大坂両度の御陣には御使番となりてしたがひたてまつり、首一級を得たり。元和三年佐渡の御代官となり、寛永二年加増あり。十二月十一日武蔵国多摩、比企、兒玉、下総国印旛、上総国武射、山辺、近江国高島七郡のうちにして、すべて二千百五十石をたまふのむね御朱印を下さる。四年七月十四日佐渡国にをいて死す。年六十。法名宗清。 惟成喜一等が呈譜、柏青に作る かの地雑太郡の綱源寺に葬る。 妻は内田全阿弥正次が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三十 清和源氏(義光流)鎮目

【鎮目家略系図】

……鎮目七郎右衛門-鎮目惟真-鎮目惟明-鎮目惟重=鎮目惟利(惟重の弟・鎮目惟正の子)……鎮目某(惟正の次男で惟利の弟)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三十 清和源氏(義光流)鎮目

以上、「上田七本槍」の一人として武功を重ねた鎮目惟明の生涯をたどってきました。

惟明の死後、鎮目家は孫に当たる鎮目惟利が亡くなったことで寛永18年(1641年)に一度断絶してしまいます。しかし、鎮目惟正の次男である鎮目某が寛永19年(1642年)に生まれたことで、例外的に御家再興が認められたのでした。

この実名も知られていない鎮目某がどんな活躍をして、子孫たちに家名を受け継いでいったのか、調べられたらまた紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第2輯』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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