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【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】

【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】

時は慶長5年(1600年)、天下分け目の決戦に遅れてしまった徳川秀忠。

信州上田城に立て籠もる真田昌幸らの足止めを食ってしまったためですが、実質的に負け戦の中でも武勇を奮った者たちがいました。

後世「上田七本槍」と呼ばれた勇士たちの顔ぶれは以下の通り。

  • 朝倉宣政(あさくら のぶまさ。藤十郎)
  • 小野忠明(おの ただあき。次郎右衛門)
  • 斎藤信吉(さいとう のぶよし。久右衛門)
  • 鎮目惟明(しずめ これあきら。半次郎)
  • 辻久吉(つじ ひさよし。左次右衛門)
  • 戸田光正(とだ みつまさ。半平)
  • 中山照守(なかやま てるもり。勘解由)

今回はそんな上田七本槍の一人、鎮目惟明を紹介したいと思います。

上田合戦・大坂の陣で活躍

鎮目惟明は永禄11年(1568年)、甲斐武田家臣・鎮目惟真の子として誕生しました。通称は半次郎または市左衛門、母親は武田二十四将の一人・甘利虎泰の娘です。

父も祖父・鎮目七郎右衛門も代々武田家に仕えてきましたが、惟明が15歳となった天正10年(1582年)に武田家が滅亡してしまいました。

やがて徳川家康が甲斐国へ入ると、惟真は惟明を出仕させます。

「それがしはもはや年老いてございますれば、愚息の半次郎をお傍に置かれませ」

かくして家康の側近に列せられた惟明は、その利発さを見込まれたのか文禄元年(1592年)になると徳川秀忠の元へ配属されました。

やがて慶長5年(1600年)に秀忠が真田昌幸の立て籠もる上田城を攻めた時には、惟明は酒井家次・奥平信昌・牧野康成の配下として苅田奉行を務めます。

奉行なんて言うとカッコいいですが、この苅田奉行とは敵を徴発するため、城下の田んぼを刈り取って城からおびき出す役目。奉行はその実務を担当したのです。

これを見過ごしては城内が干上がってしまうため、上田城内から真田勢が撃って出てきました。

さぁ待ってましたとばかり惟明たちは七人で槍を合わせて奮闘し、みごとに敵を追い返します。この時、七本槍の脇から太田吉正(甚四郎)は弓射巧みに次々と敵を射止め、合わせて賞賛されたそうです。

力を合わせて大手柄を立てた七本槍と甚四郎ら八名は、これで恩賞間違いなしと意気揚々。しかし軍令に違犯したことを咎められ、戦後に上野国吾妻へ蟄居させられてしまいました。

……が、まだまだ武勇の士は重宝されたこの時代。やがて慶長6年(1601年)に赦免され、同年7月15日に旧領(武田家臣時代?あるいは徳川臣従以降?)を賜ります。

慶長7年(1602年)には加増されてすべて1,600石を知行することとなり、また親衛隊に相当する大番(おおばん)の組頭(部隊長)を務めました。相応の実力と人望があったのでしょうね。

その後、二度にわたる大坂の陣(冬の陣:慶長19・1614年/夏の陣:慶長20・1615年)では使番(伝令将校)として活躍。首一級を得たということですが、二回で一つの首を得たのか、あるいはそれぞれ一つずつ得たのかはよくわかりません。

この武功によってか、豊臣滅亡&家康死後の元和3年(1617年)に佐渡金山の代官を命じられました。

寛永2年(1625年)には加増され、12月11日付で四国七郡2,500石を知行する旨の御朱印状を賜わります。

  • 武蔵国(多摩郡、比企郡、兒玉郡)
  • 下総国(印旛郡)
  • 上総国(武射郡、山辺郡)
  • 近江国(高島郡)

そして寛永4年(1627年)7月14日、佐渡国において60歳の生涯に幕を下ろしました。法名は宗清(あるいは柏青)、佐渡国雑太郡の綱源寺に葬られたそうです。

2ページ目 一度断絶した鎮目家を再興

 

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