武田に見切りをつけた武将!信玄と勝頼を支えた外交官・穴山信君の生涯を紹介【どうする家康】:2ページ目
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武田家に見切りをつけ始める
信玄亡き後は勝頼に仕え、天正3年(1575)の長篠の戦いに出陣。武田信繁の次男・武田信豊と中央に布陣しました。信君は戦いに挑むことを反対していましたが、勝頼は戦う姿勢を崩しませんでした。
この時から2人の関係に綻びが見え始めていきます。
そして天正9年(1581)、出家により名を梅雪斎(ばいせつさい)と改めた信君は、家督を譲った嫡男の穴山勝千代と勝頼の娘との婚姻を反故されたことに激怒。武田を裏切る決意を固めました。
裏切りと非運な最期
天正10年(1582)の甲州征伐の際、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件に、信君は織田信長に降りました。この時に、人質だった正室の見性院と勝千代を奪還しています。
信長は武田家を滅亡させると、信君を家臣に認めると共に家康の与力として任命しました。
同年5月には信長に謁見のため、家康と上洛。堺遊覧後に京都に向かう途中で本能寺の変のことを知ります。
信君は家康と共に脱出を図りますが、宇治田原で襲撃を受け、死亡しました。信君の死因に関しては自害や、家康を疑い別行動を取った後に家康と間違われて落ち武者狩りに遭い殺害と諸説あります。
信君死後は勝千代が武田家の当主となりました。
最後に
武田家を武勇ではなく知略で支えた穴山信君。外交官として各国の情勢や状況を知っていたからこそ、勝頼に将来性の無さを見抜いていたと考えられます。
しかし、織田の家臣として新たな人生を歩む時に、死亡してしまうとは不運にも程があるかと思います。まさに裏切りの代償と言っても過言ではありません。
トップページ画像 右:大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
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