凄いぞ大阪!織田信長・豊臣秀吉ら時の権力者が欲しがった交通の要衝。大阪の歴史的意義【後編(戦国~近世)】:3ページ目
江戸時代の大阪
1600年の関ケ原の戦いを経て、1604年に江戸幕府を開府し、名実ともに天下人となった徳川家康にとって唯一の懸念は、大阪城にいて徳川家と同等の地位を保持する豊臣秀頼でした。
家康は、秀頼に対し領地削減の他、徳川家への臣従・方広寺鐘銘事件など無理難題を押し付け、1614~15年に大坂の陣を起こさせ、ついに豊臣家を滅ぼします。この時、豊臣氏の大阪城は、淀殿・秀頼とともに焼け落ちます。そして大阪城は、城下町ともども徹底破壊されてしまいました。
しかし、豊臣氏が滅んでも、要衝としての大阪は健在です。家康の後を継いだ、2代将軍徳川秀忠は、大阪城の再建工事に着手します。秀忠は「石垣も堀も旧大阪城の倍にせよ」と命じます。豊臣時代の大阪城の上に盛り土をして、全て埋められ、堀はより深く、石垣は巨石を用いてより高く築き直され、約10年の年月をかけて再建を果たしました。
そして大阪は、江戸時代を通じて日本の中心となる経済都市「天下の台所」として繁栄していくのです。また、経済の中心として多くの人や物資が行き交う大阪は、人形浄瑠璃・上方落語・俳諧などの現在に続く文芸文化が花開きます。また、幕末には緒方洪庵の「適塾」が開設し、ここからは大村益次郎・大鳥啓介・福沢諭吉などの英才を輩出しました。
このように大阪は、古代から近代まで「凄いぞ大阪」と断言できる、計り知れないほどの歴史的意義を担ってきたのです。
そして大都会と化した現在の大阪には、その歴史を物語る多くの寺社・史跡・旧跡が残されています。そんな歴史ポイントを折に触れてご紹介します。どうぞ、お楽しみに……。