将軍・徳川家光の女装癖は本当だったのか?女装シーンが出てくる「若気の至り」の逸話とは:2ページ目
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家光と忠俊の確執
江戸時代初期は傾奇者(かぶきもの)という奇抜なファッションが流行していましたが、おそらく家光もそれに影響されたのか、ある日鏡を並べて化粧をしていました。
するとそれを目撃した青山忠俊は、「これが天下を治める人のやることか」と激怒し、鏡を奪うと庭へ投げ捨ててしまいます。
もちろんこれは「憎くてやった」のではなく、彼は本当に厳しい性格だったのです。時には、家光が言うことをきかないと上半身裸になって「それなら私の首を刎ねなさい」と言い出すこともあったとか。
このへんに戦国時代の気風の名残が感じられますが、それは全て愛情ゆえのこと。彼は厳しい父親代わりだったのです。
しかしさすがの家光も、人前で諭されたことが我慢ならず、忠俊を老中から外して減封しました。さらに、秀忠が死去すると蟄居・改易処分とまでしています。
その後、青山家は没落してしまい、忠俊は死ぬまで大名に返り咲くことはありませんでした。ただ、子の代では大名になっており、家光も忠俊との諍いについては「若気の至りだった」と後で後悔していたとか。
以上は有名な話ですが、この中で家光が化粧をしていたと言っても、それは必ずしも彼の女装癖を裏付けるものではありません。ただ、育ての親との関係がこじれてしまった人間臭いエピソードの中に登場しているというだけです。
徳川家光は、とかく遊び好きだったとか辻斬りまでしていたとか、どこまで本当かよく分からない逸話が多い人物です。女装癖の話も含め、まだまだその人物像については掘り下げる余地があると言えるでしょう。
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