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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 尊すぎかよ!本願寺顕如が結婚31年目に妻と交わした和歌がコチラ【どうする家康?】

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顕如と如春尼、それぞれの略歴

以上、顕如と如春尼の熱愛エピソードを紹介してきましたが、せっかくなので二人の略歴も紹介したいと思います。

【顕如の略歴】

顕如は天文12年(1543年)1月6日に本願寺の第10世・証如(しょうにょ)の長男として誕生しました。

12歳となった天文23年(1554年)8月12日に出家し、翌13日に本願寺教団を受け継ぎます。

大坂の石山本願寺を拠点に、各地の一向門徒を管理することで教団の最盛期を築き上げた顕如はやがて織田信長(おだ のぶなが)と敵対。

室町将軍・足利義昭(あしかが よしあき)の呼びかけに応じ、いわゆる信長包囲網に参加します。

紀伊の雑賀衆や長島一向一揆などと連携、自身も石山本願寺に篭城して徹底抗戦を試みた顕如。しかし包囲網の盟主的存在であった武田信玄(たけだ しんげん)の病死をはじめ、盟友らが次々と信長に滅ぼされていきました。

最終的には天正8年(1580年)に朝廷の仲介により信長と和睦。信長の死後は羽柴秀吉(はしば ひでよし)の管理下に置かれてしまいます。

そして天正20年(1592年)11月24日に世を去ったのでした。享年50歳。

【如春尼の略歴】

如春尼は天文13年(1544年)、左大臣・三条公頼(さんじょう きんより)の三女として生まれました。

姉に武田信玄の正室・三条夫人(さんじょうふじん)がおり、顕如と信玄は義兄弟の間柄になります。

弘治3年(1557年)に六角承禎(ろっかく じょうてい。六角義賢)の養女となって顕如へ嫁入り。永禄元年(1558年)9月16日に長男の教如(きょうにょ)を生みました。

その後も永禄3年(1560年)に長女、永禄7年(1564年)1月22日には次男の顕尊(けんそん。興正寺へ養子入り)、そして天正5年(1577年)には三男の准如(じゅんにょ)を生みます。

天正20年(1592年)に夫が亡くなると、長男の教如が本願寺教団を継承。しかし如春尼は三男の准如に教団を継がせるよう、秀吉に願い出ました。

理由については諸説あり、如春尼が教如の側室である教寿院(きょうじゅいん)と対立していたためとか。

願いを聞いた秀吉は、教如に対して10年後に准如へ教団を譲るよう命じました。すると教如が不服を唱えたため、ただちに強制引退。教団は准如が継承しました。

そして慶長3年(1598年)1月16日に55歳で世を去ったのです。

終わりに

以上、本願寺夫妻の絆とそれぞれの生涯をたどってきました。今年も七夕が来たら、今回のエピソードを思い出すと、新鮮な気持ちで過ごせるかも知れませんね。

戦国乱世のまっただ中にあって、一向門徒を束ね上げて信長と対立した顕如と、夫の奮闘を支えた如春尼。波乱に満ちた二人の日々は、現代もなお人々に感動を与えています。

NHK大河ドラマ「どうする家康」では多分(信長の覇業に隠れて)割愛されてしまうのでしょうが、秀吉の死後に教如が徳川家康(とくがわ いえやす)と会っているため、一縷の望みに賭けたいところです。

※参考文献:

  • 赤松徹真ら編『真宗人名辞典』法蔵館、1999年7月
  • 千葉乗隆『図解雑学 浄土真宗』ナツメ社、2005年3月
  • 芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年6月
 

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