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「どうする家康」で割愛するのは勿体ない!姉川合戦で大暴れした猛将・磯野丹波(磯野員昌)の十一段崩し

「どうする家康」で割愛するのは勿体ない!姉川合戦で大暴れした猛将・磯野丹波(磯野員昌)の十一段崩し

信長をあと一歩まで追い詰めたが……

磯野員昌は大永3年(1523年)、浅井家臣である磯野員宗(かずむね)の子として誕生しました。

別名は磯野秀昌(ひでまさ)、磯野貞昌(さだまさ)などと呼ばれ、やがて丹波守の名乗りを許されます。

武勇に秀でていたため数々の合戦で勲功を重ね、大野木国重(おおのき くにしげ)・野村定元(のむら さだもと)・三田村秀俊(みたむら ひでとし)らと並んで浅井四翼と恐れられたそうです。

元亀元年(1570年)姉川の合戦では織田信長(演:岡田准一)の備えを十一段まで斬り崩し、あと一歩のところまで追い詰めました。

……浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよゝゝさはぎ乱て旗本もいろめきだちぬ。……

※『東照宮御実紀(徳川実紀)』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

これが磯野員昌の「姉川十一段崩し」、さすがの信長も生きた心地がしなかったことでしょう。

しかし、程なく朝倉勢を蹴散らした徳川勢が救援に駆けつけたため撤退。反攻を期して近江の佐和山城を堅守しました。

小谷城の主君・浅井長政(演:大貫勇輔)と連携して織田勢を悩ませた員昌ですが、やがて陸路を寸断されて孤立。元亀2年(1571年)2月24日に奮戦虚しく降伏します。

二月廿四日 礒野丹波降参申佐和山之城渡し進上して高島は罷退即 丹羽五郎左衛門爲城代被入置■キ

※『信長公記』巻四 元亀二辛未

たとえ敵であった者でも、有能な者は手厚く迎える信長。員昌は木下藤吉郎(演:ムロツヨシ)・丹羽長秀(にわ ながひで)・中川重政(なかがわ しげまさ)・柴田勝家(演:吉原光夫)・佐久間信盛(演:立川談春)・明智光秀(演:酒向芳)と並ぶ破格の待遇を与えられました。

「ただし。我が甥の七兵衛(しちべゑ。津田信澄)を養子とするように」

つまり磯野の家督は実質的に員昌一代限りと宣言されたのです。

その後も天正元年(1573年)に信長の暗殺を謀った杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)を捕縛したり、越前の一向一揆鎮圧に従軍するなど武功を重ねた員昌。

しかし天正6年(1578年)に信長から叱責を受けたため出奔してしまいました。原因は不明ですが、養子の信澄へ家督を譲るよう強要されたとの説もあります。

やがて信長の死後、武士をやめて帰農し、天正18年(1590年)に68歳で世を去ったのです。

終わりに

以上、磯野丹波こと磯野員昌の生涯を駆け足でたどってみました。

恐らく第15回放送「姉川でどうする!」はもちろん、その後も割愛されるでしょうが、こういう猛将がいたことを知っておくだけでもドラマ観賞に深みが出ると思います。

なお員昌の子供たちは石田三成(いしだ みつなり)や藤堂高虎(とうどう たかとら)に仕えて磯野家を後世へ受け継ぎました。

NHK大河ドラマ「どうする家康」で名前だけ登場する人物についても、みんなそれぞれの生涯を送っているので、調べてみると楽しいですよ!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『信長公記』国立公文書館デジタルアーカイブ
  • 高木昭作 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年1月
  • 谷口克広『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・離反』中公新書、2007年7月
 

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